2014年(平成26年)6月10日号

No.611

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追悼録(527)

アッツ島で玉砕した山崎保代中将を偲ぶ

 思い立って多磨墓地に眠る山崎保代陸軍中将の墓に参る(5月28日)。明日が命日であった。山崎中将(陸士25期)の墓は霊園名誉霊域通り・大回り東通り交差点・19地区1種2側にある。墓誌に「従四位勲二等功三級・陸軍中将山崎保代 昭和18年5月29日アッツ島・戦死・53歳」とあった。「妻 栄子 昭和48年7月2日没 78歳」とも記されていた。この墓を建てられたのは昭和16年8月。長男が昭和15年12月25日21歳で亡くなっておられるからであろう。

 敬愛する先輩後藤四郎さん(陸士41期)の本を読んでいたら大本営報道部員時代、作家川口松太郎が書いた戯曲の脚本「アッツ玉砕」に遠慮なく修正削除の赤ペンを振るったと出ていた。川口さんが軍隊用語に不慣れ故であった。脚本は市川猿之助一座が上演するためであった。後藤さんは報道部に来る前の昭和17年7月から3ヶ月間、新潟県高田市にあった歩兵130連隊に大隊長として勤務した。その時の連隊長が山崎保代大佐であった。川口松太郎さんに山崎連隊長のエピソードをたくさん話したという。

 山崎大佐は昭和18年2月北海守備二地区隊長として米領アリューシャン列島最西端のアッツ島に2527名の部下とともに進出,占領した。東西65キロ、南北35キロの火山島である。5月12日、米軍1万5000人(歩兵7師団)が猛烈な艦砲射撃の援護の下に輸送船30隻、戦艦1隻、空母1隻、改装空母1隻、甲巡洋艦3隻、駆逐艦7隻を伴って上陸。守備隊は孤軍死闘続けること18日間、3日で攻略すると豪語した敵将は応援を要請して交代を余儀なくされる。山崎大佐は・一兵の援軍も要請せず、5月29日、150人の生き残りの将兵とともに「武士道の成果を発揮せん」と打電して突撃、玉砕した。米軍は700人の戦死者と1500人の負傷者を出す。山崎大佐は二階級特進して中将となった。30日朝、杉山元参謀総長が拝謁上奏。昭和天皇は「最後までよくやった。このことを伝えよ」と仰せになった。杉山参謀総長が「ただ今奏上いたせる如く無線機は破壊されております」と申しあげると、天皇の御言葉は「それでもよいから電報をだしてやれ」であった。

 川口松太郎さんはたまたま靖国神社の遺族昇殿参拝のため高田市から上京中の山崎中将夫人栄子さんと後藤さんの自宅でいろいろ話を聞いている。「最も感激深かったのは、最後の高田出発の日で、その日の模様はまるで昨日のようにどんな小さいことまでも、まざまざと思い返してお話しなさる。荷造りのなかへお子さんたちが、それぞれの心づくしの品々をお入れするところなど、とても辛抱できなくて書きとめている手帳の上へ大きな涙がポタポタこぼれ落ちた」とその著書に書いている。夫人栄子さんは昭和48年7月2日78歳で死去された。今は多磨墓地にともに眠る。

 私は陸軍予科士官学校に在学中で在校生一同、この日牧野四郎校長から訓辞を聞く。同期生田中長君は日記に「守備隊長山崎大佐は同郷山梨の先輩と聞く。誰か奮起せざるものあらんや」と書く。長井五郎君は修養録に「日の下のもののふの意気知られけり 霧の小島に身は滅ぶとも」の一首を記す。

 「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」(朝日新聞選定・曲・山田耕作)にいう。「火砲は すべて砕け飛び 僅かに銃剣 手榴弾 寄せくる敵と相撃ちて 血潮は花と雪を染む」(5番)。

 徳川無声は『無声戦争日記』に書く。「5月31日の新聞にアッツ島の守備隊全員玉砕という大変な記事が出た。これもショックであった。山本大将戦死の記事よりも私には強いショックであった。―これで日本もいよいよダメかな?そんな気がしきりにするのであった」

 アッツ島玉砕から70年、山崎家の墓地は綺麗に清掃され清楚なたたずまいであった。

(柳 路夫)