安全地帯(430)
−信濃 太郎−
昭和天皇とマッカサー元帥の会見秘話
昭和史は面白い。知っている歴史的事実を掘り下げればしんしんと興味ある事柄が浮かび出てくる。たとえば、昭和天皇が敗戦直後、占領軍の最高司令官マッカサー元帥との”歴史的御会見“。会見されたのは昭和20年9月27日であった。マッカサー元帥が厚木に着いたのはその年の8月30日、到着から1ヶ月もたっていない。会見を取り持ったのは当時、宮内庁の御用掛であった外交官・寺崎英成さんと言われている。夫人のグエンドレン・ハロルドさんのいとこ・ボナ・フェラーズ准将がマ元帥の軍事秘書であった。フェラーズ准将を通じて陛下の意思が伝えられた。会見場所はマ元帥の意向で第一命ビルのオフイスでなく私邸(米国大使館)で行われた。マ元帥の専属通訳・フォービァン・パヮーズ少佐の話によれば、マ元帥は陛下に「you are very very well come,Sir」と挨拶した。パヮーズ少佐は後にも先にもマ元帥が誰かに向かって「サー」というのを聞いたことがないという。この後、応接間で陛下とマ元帥の記念写真が撮られた。当時の毎日新聞を見ると、日付は昭和20年9月29日。写真説明は「歴史的御会見 天皇陛下はマッカサー元帥をご訪問遊ばされた。御写真は東京の米国大使館大広間で歴史的御会談を行わされた時の写真である(米陸軍通信隊撮影)」とある。
この時のカメラマンはジターノ・フェレイス少尉。少尉の要望で合計三枚の写真が撮られた。後でわかったことだが一枚の写真は元帥が目をつぶり、もう一枚は陛下の脚が開き気味であった。三枚目の写真が新聞発表になった。重要な写真は少なくとも三枚はとれという教訓である。パヮーズ少佐の話によれば占領中の日本で撮影された写真の中でマ元帥が無帽であったのはこの写真が最初で最後でなかったかと語っている。
昭和天皇がはじめて宮内庁詰の新聞記者と会見されたのは昭和20年12月22日であった。場所は吹上御殿の霜錦亭前であった。戦前天皇と新聞記者との記者会見など考えられもしなかった。昭和53年8月23日那須御用邸での記者会見で「マッカサー元帥との初御会見の内容などをお話していただけませんか」の質問に陛下は「マッカサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。男子の一言は守らねばなるまい。世界に信頼を失う事にもなるので話せません」と答えられる。
実はマ元帥はすでに昭和39年『回想記』を出版、その中で昭和天皇との会見の内容を明らかにしている。それによれば、天皇陛下の口から出たのは次のような言葉であった。「私は国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」。マ元帥は大きい感動にゆすぶられる。「この勇気に満ちた態度は私の骨のズイまで揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の真であることを感じ取ったのである」と書いている。パヮーズ少佐の話ではマ元帥は陛下と会う前に「いったい天皇は何しにやってくるのだろうか。命乞いにやってくるのか、戦犯裁判にはかけないでくれ、と言いにやってくのだろうか」と考え込んでいたという。すっかり陛下のお人柄に打たれたマ元帥は「何かご不自由はございませんか。どうぞ何なりとおっしゃって下さい」と申し出たそうである。
この会見の際、マ元帥は陛下に「私はあなたのおじいさんにあったことがある」ともいっている。元帥は明治37年、父親のアーサー・マッカーサー将軍の副官として日露戦争の調査のために来日、明治天皇に謁見している。
日本の占領政策は昭和天皇とマ元帥の会見があったからこそうまくいったともいえそうである。会見時間は28分。時間は短くともまさに「歴史的御会見」であった。
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