2014年(平成26年)5月10日号

No.608

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追悼録(524)

画家山下清を偲ぶ

 山下清展を観る(長野市城山公園内長野県信濃美術館・6月1日まで)。たまたま戸隠へ遊びに行ったついでに善光寺に参拝、そのあと美術館へ足を運んだ。山下清は子どものころから「観察力」と「記憶力」に抜群の能力を示したという。言語障害のためにいじめに遭い、小学校(新潟・東京)から逃げ出し八幡学園(千葉)に移ってから貼り絵にその才能を開花させる。初め対象は昆虫。姿、色、習性について日記に書く。「蜂は尻から針を出して刺すので,刺す蜂はメスです」などその内容は専門的であった。やがて「剣道」(昭和11年)や「柔道」(昭和12年)の貼り絵も描くようになる。意外や「観兵式」(昭和12年)、「軍艦」(昭和13年)「高射砲」(昭和13年)などの貼り絵もある。物事を兵隊の位で考えたという山下清は軍隊には関心があった氣がする(大正11年の陸軍記念日3月10日に生まれた)。「飛行機の音や高射砲の撃つ音がして空がにぎやかで空のお祭りのようだ。けれどもよく考えてみるともし爆弾や焼夷弾を落とされたらおしまいだ」と日記につづる。このころは日中戦争のさなかであった。昭和8年8月9日には関東地方で初めての防空演習が行われた。桐生悠々が信濃毎日新聞の社説に「関東防空大演習を嗤う」を書いたのはその年の8月11日であった。

 戦後の昭和25年に「長岡の花火」を張り絵で描く。代表作といわれる。漆黒の空に“こより”を駆使した、重なり合う6輪の花火。会場をうずめつくした老若男女の姿。圧巻である。「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたらきっと戦争なんて 起きなかったんだな」(山下清)。

 聖火台を描いた「東京オリンッピク」のペン画(昭和39年)があった。新聞の特集「オリンッピクを迎える日本の姿」をスケッチするために特別に開会式に招待された。社会部記者は開会式の雑感を一面トップの記事にするのを名誉とした。

 「パリのサクレクール寺院」(昭和37年・貼り絵)。「浅草の観音様より十倍も大きなお寺」。建造は1914年「聖なる心臓」という名を持つ。私もここを山下清より10ほど遅れて訪れている。もともと絵をみるのが好きであったので寺院より無名画家たちの絵を見て回った。「凱旋門」も「エッフェル塔」も水彩画で描く。山下清の最後の作品は「熱田神宮」のようである。この絵を描きあげた時に「眼底出血」を起こしドクターストップがかかり養生生活に入っているからである。昭和46年7月12日「今年の花火見物はどこにしようかな」の言葉を残して49歳で死去する。

 山下清語録で好きな言葉。「嘘と本当は どのくらいの割合に よのなかにあるものだが わからなくなる 大勢が本当だといえば 嘘で本当になるかも わからないので よのなかのことは 僕にはよくわからいのです」。

 

(柳 路夫)