2014年(平成26年)5月10日号

No.608

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花ある風景(523)

 

湘南 次郎

 

富岡製糸場
 


 政府はユネスコが群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録するように勧告したと発表があった(4月26日)。富岡市はさぞかし喜んでいることだろう。おめでとうございます。

 過日、2回ほど信州方面ドライブの途次、製糸工場見学に立ち寄ったことがあった。早朝であったが、道でお会いする人が、みな「おはようございます」とごあいさつをする非常に感じの良い町である。9時開門を待って年配のボランティアに説明を受けながら見学した。詳細は省くが明治5年(1872)日本の産業改革、近代化の象徴として、開設された。特に煉瓦積みの建物は、当時の人々の進取の気性(しんしゅのきしょう)が現れている見事な傑作だ。

 以後、明治政府は明治26年(1893)、官営より三井財閥の「片倉工業」へ払い下げるまで、約20年間、外人の専門家を招へいし、日本全国より優秀な子女を選抜し、最新の製糸技術を教育し、故郷に帰し各地の製糸工業に貢献させたのだ。あわせて、読み書き、礼儀作法、裁縫など良妻賢母となる教育も施されたのであった。左翼のよく言った女工哀史など一辺のかけらなく、全寮制の技術ばかりでなく知育・徳育の教育方法は、まさに、かつての陸軍士官学校か、海軍兵学校に匹敵する。

 実はわたし事になるが、小生の義父が存命中、「日清紡」に勤めていたが、しばしば富岡製糸場に出かけたのを覚えている。義父は旧制米沢高等工業(山形大)の染色科の出身で東大、京大卒、を合わせても当時の日本で数人の染色の権威で、技術指導に呼ばれたのだろう。「片倉工業」の総合的な教育が垣間見える。かつて、工場見学の折、事務所でその話をしたところ、かかりの方々に懐かしがられ、おみやげに蚕(かいこ)の細工物をいただいたことがあった。

 製糸工場の見学はごく最近のことだが、昭和62年(1987)操業停止しても、明治5年の建造物を良くいままで保存していたのに頭が下がる。平成17年(2005)国史跡に指定され、特に煉瓦積みの建物は建築家の垂涎の的だろう。養蚕農家の多い群馬での蚕、水、動力の燃料収集の容易な適地で、河岸段丘に立地し、上毛三山の景観もすばらしい。難問はどこにも共通する道路の狭いことだが、東京にも近いし、日本の近代化の嚆矢(こうし)、先人の卓見を拝察するのにぜひお出かけをおすすめする。