2014年(平成26年)5月10日号

No.608

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安全地帯(428)

信濃 太郎


友人狩野弘道君のお祝いの会


 友人狩野弘道君の旭日双光章叙勲のお祝いの会(社員主催)に10人の同期生とともに出席した(4月26日・東京・ホテルオークラ)。出席者は狩野君の取引先の会社、金融機関。親族など175人。88歳の狩野君の肩書は東京中央食品代表取締役社長。会社を創業した昭和31年4月以来57年間、社長の座にある。挨拶に立った業界の人々の話を聞けば”長期政権”の理由がよくわかった。その挨拶を聞きながら彼の原点が「歩兵操典」にあると思った。「歩兵の歌」は歌う。「退く戦術 われ知らず 見よや歩兵の操典を 前進前進また前進 肉弾とどく,ところまで」(8番)。それにしてもいつまでやるのか心配にもなった。

 目の付け所が良い。戦後、独立してする仕事に「食品」を選ぶ。誰でも毎日食べるものである。この出席した同期生の一人深尾秀夫君も食品分野に進出、関東食品会社の会長を今なお務めている。狩野君はまず「学校給食」を手掛ける。なんといっても代金回収が安全である。これは建築資材販売時代に資金の焦げ付きに泣かされた経験があるからである。失敗は成功のもとという。独立した昭和31年の4月から公布された学校給食法も彼の仕事の追い風になった。

 士官候補生は一か所に止まっておれない。戦術では「決心攻撃・目標左」と教わった。次の目標は「病院給食」であった。学校には夏休みなどがあって給食の仕事は1年の半分しかない。効率が悪い。病院の得意先を開拓、東京、神奈川、千葉、埼玉と広げた。ついで「福祉施設給食」と発展する。さらに戦術は「相手に勝つには、ないのをするのが一番大事かを考えよ」と説く。そこで彼が考えたのは7千人働いていたソニー工場に「給食業務をおれまでより少ない人数でできる施策」の提案であった。これが高く評価されて大得意先になった。この「提案型施策」はどの企業でも通用する。新聞企業も読者に「提案型記事」を提供できれば読者は増える。やるかやらないかの違いだけである。

 乾杯の音頭は狩野君と同じ中隊の指宿清秀君がとる。指宿君は保育中隊の話をする。陸士59期には特に体力・健康上特別の配慮を必要とする同期生がこの中隊に配置された。卵や牛乳など滋養のあるものを摂った。お蔭で狩野君初めこの中隊の同期生はみなすくすく育った。同席した同じ中隊の同期生は佐藤時幹君(北秋田市在住)、別所末一君(長野県軽井沢町在住)であった。

 見逃せないのは同業者の人たちとの切磋琢磨である。挨拶された日東ベストの内田淳会長の話によれば「ヒノマル給食会」で活躍し、海軍経理学校出身のベストフローズンの社長とは肝胆相照らす中で喧々諤々とやり合い、常に挑戦する姿を見せていたという。

 また事業にいち早くコンピュータを活用、受注を一本化し食材を一括納入する独自システムを開発したのも事業発展のために役立った。「横森式階段」の同期生・横森精文君(故人)が階段製造にコンピュータを導入、成功したのと同じである。最後にお礼の挨拶に立った狩野君は数字を並べ立て予算枠がそのままの中でいかに工夫して効率的な外食産業を発展させるかを熱心に説く。どうもまだまだやる気十分であった。蛇足で付け加えれば狩野君が終始夫人寛子さんに気配りをしているのが目についた。結婚されてすでに61年。この何気ない所作をうらやましく感じた。

 「とこしえに仲睦まじくうららかに」八田淳子