2014年(平成26年)5月1日号

No.607

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茶説

集団的自衛権を考える

 牧念人 悠々



 日本が「集団的自衛権」を持つのは当たりまえである。これは国が持つ固有の権利である。国際情勢の変化で自分の国を守るために必要になってきたのだ。これを行使しないと宣言する必要はない。よからぬ敵に乗ぜられるだけである。こういうと、すぐに「戦争をするつもりか」と反論が来る。集団的自衛権を論ずる前に常に「戦わずして勝つ」のが基本的な立場であるのを強調しておく。どのような場合でも隠忍自重、堪えがたきを堪え外交努力をする立場である。

 もともと「集団的自衛権」は第二次大戦前にはなく、戦後生まれた言葉である。国連憲章51条に「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」とある。

 国連憲章が採択されたのは昭和20年6月サンフランシスコ連合国会議(4月25日から6月26日・参加50ヶ国)である。それから68年たつがこの言葉について国際的にはその定義はあいまいである。自衛権は固有の権利であるからそれぞれの国が国益に照らして解釈しても問題はないように思う。

 日本政府は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を自国が直接攻撃さていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利」と定義している。平たく言えば友人が強盗に襲われたら手助けするということだ。これまでの日本の考え方は強盗が自分に向かってこない限り手助けしないということである。憲法解釈もこの考え方であった。つまり「憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、日本を防衛するための必要最小限度にとどめるべきである。集団的自衛権を行使するのは、その範囲を超えるもので憲法上許されない」というものである。

 安倍晋三内閣はこれを変えようというのだ。近く「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で答申が出る。憲法解釈の変更について憲法上許されないという説もあるが、婚外子判決のように憲法解釈は必要に応じて許される。近代戦争では想定外のことが起きるのが常である。それを細かく規定するのは無理である。日本は集団的自衛権を持つといえばよい。それだけでも「抑止力」になる。何も軍国主義になるわけではない。国連憲章に従うまである。北朝鮮が核開発を進め中国が軍備費を毎年増額し軍事大国になっている。しかも東アジア南アジアで挑発的な態度をとっている。月刊誌「偕行」4月号(井上広司論文)には米太平洋艦隊のファンネル参謀副長の注目すべき発言が紹介されている。それによると、昨年秋に中国人民解放軍の全部門が参加した大演習の中で尖閣諸島を侵攻するシナリオで上陸訓練を行っている。米軍は「中華人民解放軍が東シナ海自衛隊を殲滅し、尖閣列島を奪取する短期決戦の任務を与えられたと結論づけた」という。

 時代は激しく動く。国防に関しては明確な態度を打ち出すべきである。国際貢献をするにしても米国をはじめ友好国と連携して事に当たることが不可欠である。このためには集団的自衛権が必要である。敵に隙を見せてはいけない。日本の国防論議はのんびりぬるま湯に浸かっている感がある。