戦後東久邇稔彦内閣の後首相になった幣原喜重郎(昭和20年10月9日)は英語が抜群にうまかった。ある時、ダグラス・マッカーサー占領軍最高司令官がその英語をほめた。ロンドンで在勤中、英語の個人教授につき、シェクスピアの暗誦をやらされたと語り、好きな「ベニスの商人」の一節を朗読した。「そもそも慈悲と称するものはその性質上決して強行さえるべきものに非ず。あたかも天より地におつる穏やかな雨の如くに降りくるものなり…」。首相幣原、時に73歳.巧まずしてシェクスピアを通じて『慈悲』を説いたのである。戦前英米との協調を説いたので「軟弱外交」と非難されたが彼の著書「外交50年」(中央公論新社)を読む限り名外交官である。
敗戦直後の世相を見る。10月・8日、東京の上野高女生ら学園の民主化を叫んで同盟休校、11日、戦後第一作品映画「そよかぜ」(松竹・監督佐々木康・佐野周二、並木路子。主題歌「リンゴの唄」大流行。22日、待合・バーの閉鎖解除。29日、第一回宝くじ発売。1等10万円に副賞として純綿キヤラコをつけられた。昭和23年には木造住宅が副賞につけられた。口・7199万人(国勢調査)。11月6日、柔道・剣道・弓道の授業禁止。16日、大相撲10日間興行で復活。17日、GHQ反民主主義的映画227種を指摘、剣劇物は上映不可になる。23日、プロ野球、東西対抗戦で復活(神宮球場)12月31日、日本史、終身,地理の授業停止。同日、日銀券発行高5百億円突破する。民主化の波が押し寄せ、平和を取り戻しインフレが来るのがよくわかる。
幣原内閣は昭和21年5月22日吉田茂内閣に代わるが幣原首相がマ元帥に与えたインパクトは強かった。戦後の米国による日本占領政策がうまく運んだのはこのような幣原の人柄が影響しているように思う。
幣原はイギリスの外交官ジェームス・プライスの例を挙げて外交では大局に立って判断することがいかに大切であるかを説明する。1912年開通したパナマ運河の通行税についてアメリカは自国の船はすべて免除、外国船には高い税を課すという法案を上院に提出した。これではイギリスの船などはアメリカ船とは競争できない。プライス大使は英米船舶の間に差別待遇を禁ずるという条約があると、アメリカに猛抗議した。ところが法案は上院を通過してしまった。「今後どう抗議するのか」と幣原が聞くと、プライスは「このまま抗議を続ければ戦争になるでしょう。戦争をする腹がなくて抗議ばかり続けて何になりましょう。このまま打ち捨てておきます。一部分の利害に拘泥して大局の見地を忘れてはなりません」といったという。アメリカは2年後にパナマ運河の差別的通行税を撤廃した。今でも日本外交にとって貴重な意見である。
幣原の著書「外交50年」に日本の新聞記者に耳の痛い話も載っている。APの社長をしたメーヴィル・イヤーズ・ストーンが「最も多く聞いて最も少なく書くのが一番いい記事だ」と言っているのに日本の新聞記者は、ちょっと話すと、それに尾ひれをつけて書くものが多いという。また「この話は新聞に載せない方がよろしいでしょうね」と向こうから言う記者がいるという。昔の話だとしても聞くべき話である。幣原の偉いところは廉潔さである。外務省電信課長時代、外国人がアメリカの電信暗号を売りに来た。調べると本物らしい。すぐにアメリカ国務省に知らせると「こういう注意をしてくれる国はない」と感謝されたという。桁外れというほかない。
幣原喜重郎は昭和26年3月衆議院議長在職中死去した。享年78歳であった。
(柳 路夫)
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