2014年(平成26年)3月20日号

No.604

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安全地帯(424)

信濃 太郎


小村寿太郎全権と日露講和条約


 外相・小村寿太郎はイギリスの詩人テニスンの詩集を愛読した。題「砕け、砕けよ、砕け散れ」

 「砕け、砕けよ、砕け散れ
  お前の冷たい灰色の岩に、大海よ
  願わくは、我が胸に起こる想いのかずかずを
  口で言い表すことができるものなら」
 (テニスン詩集・西前美巳編・岩波書店)

 小村寿太郎は講和が一刻も早く戦争を終結させることに尽きる以上日本側に不利になる条件で締結せざるをえないことを悟っていた。明治38年7月8日、日本を出発の朝、新橋駅広場をうずめた群衆の万歳の声を聴きながら「帰国する時には人気は逆でしょうね」と桂太郎首相に語っている(吉村昭著「ポーツマスの旗」外相・小村寿太郎・新潮社)。

 日露講和条約報道で最も活躍したのは戦時中のロシアを東京日日新聞のために取材報道した米国記者オラフリンであった。帰米後、ルーズベルト大統領と親しかったこともあってルーズベルト大統領が講和のあっせんをする意思があるのをいち早く報道した(大毎・明治38年6月2日・日本の講和会議受諾は6月9日)。ロシアでは日露戦争時、すでにウィッテと会っていた。ニューヨークに着いたウィッテに取材、ロシア側の講和に臨む意図を明らかにした特電を打っている(明治38年8月2日)。「別にロシアは難しい局面に立たされたわけではない。軍備は十分備えている。日本は信じられるほど優勢ではない。平和談判ではそのことを強調して屈辱的条件をのむ意思はない」というのである。オラフリン記者は8月29日には「講和条約締結。露国より一銭の賠償金を出さず樺太の分割を以て成立す」と至急電で伝えた。9月5日の調印の時も講和条約の大要を特ダネで報じた。東日は社説で成立した講和条約を「死体的講和」の見出しで論じた(『毎日新聞百年史』)。

 他社はどのように報じたのか。「読売新聞百二十年史」は次のように記述する。『勝った勝ったと歓呼する国民にとっては、期待外れの講和であった。8月31日桂政権と親しい徳富蘇峰の国民新聞が講和条件を報じると、非講和論が起きる。本紙は31日「万事休す」の見出しで講和成立の一報を載せ,9月1日には「外交の失敗世論の憤激」のタイトルで新聞各紙の論調を特集、中でも異彩を放つのは国民新聞なりと書いた。一日の大阪朝日新聞は「講和条件」を黒枠で囲んで報じた』。記事を黒枠で報じるとはそれだけ世論が憤激している証左であろう。また国民新聞のみが条約成立容認の社説を繰り返していたので「異彩を放つ」と表現されたのである。

 当時、ウィッテは意識的に秘密を漏らして会議を有利に進めようとしたのに対して日本側はあまりにも厳正に秘密を守る作戦に出た。このことが後で国民の日比谷公園の焼き討ち事件を呼ぶもととなった。新聞検閲もひどいもので、検閲のためにニュース掲載が遅れるという事態も起きた。特に講和成立の電報が丸一日遅れたということもあった。政府は戦争の実情をひたすら隠していた。

 社説の見出しの「死体的講和」であっても国民は軍の内情を知らなすぎた。奉天会戦後陸軍は砲弾45万発の予備を確保し砲も千46門をそろえたもののロシア側は砲数では倍以上、兵力も3分の一以上も日本軍より勝る。日本軍は兵力の動員力も枯渇している。外債はまったく望めない状況にあった。日本がロシアに勝つ勝算は極めて少なく、財政も崩壊の危機にあった。この実情を明らかにすれば講和条約は不調に終わってしまう。
日露戦争での日本軍の損失は莫大であった。戦死者約12万人。艦船91隻、臨時軍事費15億2千万円。これに対してロシア側の損失は戦死者11万5千人、軍事費21億8千万円であった。

 このような内情を国民は知らなかった。憤慨するのは当然である。ここに政府広報の難しさがある。外交・防衛情報は秘匿せねばならないがいつどの範囲まで解除するか難しい。ここにリーダーの質が問われることになる。

 明治38年(1905年)8月29日、日露講和条約が実質的に合意に達し、9月5日調印した。全部で15ヶ条ある。その内容は次のようなものであった。

 1日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
 2日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
 3 ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
 4 ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
 5 ロシアは関東州の租借権を日本へ譲渡する。
 6 ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

 時に全権小村寿太郎。49歳。己の無力をひしひしと感じたに違いない。条約が結ばれた深夜、ホテルの一室で小村が大泣きたと伝えられる。小村にとってこの条約の調印は、苦渋の決断だった。

テニスンの詩で結ぶ。
 「砕け、砕けよ、砕け散れ
  おまえの岩の足もとに、おお海よ
  だが、過ぎ去った日の、あの優しい恩寵は
  二度とけっしてこの身に戻ることはないだろう」(1842年発表)

 小村寿太郎がこの世を去るのは明治44年11月26日であった。享年56歳。葬儀は青山斎場で行われ棺には愛読のテニスン詩集が収められた。