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岸田吟行・劉生・麗子展を観る
牧念人 悠々
時代のつながり、血のつながりとはなんだろう。世田谷美術館で開かれている毎日新聞主催の「岸田吟香・劉生・麗子」展を見て(4月6日まで開催)そう感じた。吟香は東京日日新聞の主筆、日本で初めてジョセフ・ヒコとともに「新聞誌」を出した人である。1864年6月28日(元治元年)である。明治維新より4年も前である。目薬を発売するやら広告に力を入れるやら横浜の宣教師・医師のヘポンの「和英辞書」の編集を助けるなど外人との付き合いも深く傑物であった。この父のもとに異端の画家劉生が生まれ、娘の麗子が後を継ぐ。親子3代別々のようで、一本つながっている。吟行72歳、劉生38歳、麗子48歳。その命は短くてもその芸術はながく、後世に伝えられてゆく。
会場で初めて吟香が画家高橋由一と知り合いであることを知る。高橋由一は「鮭」「花魁」(いずれも重要文化財)を描いた作家と知られ、近代洋画の開拓者である。高橋が明治10年第1回内国勧業博覧会に出品した「甲冑図(武具配列図)」を吟香は新聞に詳細に紹介する。明治時代の写真家下岡蓮杖とも交流があった。昨年奇しくも高橋由一展と下岡蓮杖展があり、いずれも拝見した。
吟香は従軍記者第1号である。明治7年4月台湾出兵(陸軍大輔・西郷従道が士族兵3600名を率いる。明治8年5月凱旋する。戦病死573名)の際、従軍取材を提案したが「新聞記者がなぜ戦にかかわるのか」と誰も応じなかった。吟香は「新聞は国家の耳目だ。見分を速やかに伝える責任がある。西洋の新聞では必ず戦争に探訪記者を派遣するほとだ」と言って自ら従軍した。明治7年5月20日台湾に上陸、記事を送ったという(今吉賢一郎著「毎日新聞の源流」・毎日新聞刊)。新聞に口語表現を取り入れたのは銀香であった。すごい新聞人である。
白髪、白い顎鬚を蓄え、右手にペンを持ち思案気な銀香の人物像を見ているとこの人には商売気が一向に窺がえない。目薬「精リ水」の広告に本店は東京銀座二丁目一番地岸田吟香とある。小林清親が描く「桃花散・百発百中膏・清リ水」の絵もあった。なかなかの商売人である。電通の前身の日本広告株式会社の設立にも関係する。
劉生は銀座で吟香の4男として生まれる(14人兄弟姉妹の第9子)。江戸っ子である。彼の自画像を見る。大正3年5月8日制作。友人椿貞雄に贈ったもの。ひと月前に麗子の父親になっている。眼鏡をかけた自画像の奥に劉生が描きかったものは何か。この年の3月、芸術座が帝国劇場で「復活」を上演、松井須磨子のカチューシャの唄が評判となる。4月、宝塚少女歌劇団初公演出し物は「ドンブラコ」など3本。前年には岩波書店開業、「立川文庫」刊、「有朋堂文庫」刊、近代劇協会「ファスト」を上演するなど大正デモクラシーの波が泡立ち始めたころである。このころ古典的な写実の世界へ踏み込んでゆく劉生の姿勢を考えれば、彼の目指すものはあくなき美の創造であったように思う。生涯追い続けても到達できない画業であろう。だが、父が新聞記者として現場を重んじ事実を追求したように”美の極致”を究めようとしたに違いない。
ふと気が付くと、私が中学時代を過ごした大連の風景図が2点あった。心和む絵であった。大連のどこか見当がつかなかった。劉生は昭和4年8月、満鉄に招かれて大連・奉天・ハルピンへ旅行に行っている。日記には「10月3日8時半大連に無事着く。大連郊外星が浦大和ホテル26号室に落ち着いた。非常に愉快な旅であった。このホテルは非常に気持ちの良いホテルで一体この星が浦というところは避暑地で、海岸の風光実によく一寸日本には珍しいところだ・・・」とある。日記には風景画の注文があるという記述が見える。大連では協和会館で13点を出品、個展を開いている。
麗子といえば劉生が描く「麗子像」しか浮かばない。見る人に鮮烈な印象を与える。神々しいまでの童女である。「岸田の画業の中で麗子像の占める位置は高い」と武者小路実篤も言う。麗子が15歳の時、劉生が38歳の若さで急逝する。彼女自身も絵が好きで生涯絵をかく。しばしば個展も開く。女優でもあった。昭和37年7月くも膜下出血により48歳で亡くなる。その2日後に「父 岸田劉生」の書が出来上がった。序に武者小路実篤は「劉生のことを知りたい人は是非この本を読まなくてはならない本だ」と記した。
作品にその人の人柄が凝縮されているというなら吟香・劉生・麗子のそれぞれの作品に、なし遂げた仕事・画・残した文章に先見性・反骨・独自性などが表現されているといってよい。面白い考えさせる企画展であった。
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