思い立って多磨墓地にある山下奉文大将の墓(16区1種8側6番)にお参りする(2月13日)。命日は2月23日。真正面に「山下奉文墓」とあり、2対の花挿に榊が供えられてあった。右側に安岡正篤撰の追悼碑。「人世時有リ命有リ治乱は時なり・・・」とある。
墓誌には久子 1970年8月10日没 72歳とあった。久子さんは夫人。永山元彦少将(陸士1期)の娘。大正6年結婚した。墓の周りは手入れが行き届いていたがまだ雪がわずかに残っていた。
山下大将は陸士18期。陸大28期恩賜。毎日新聞政治部記者・岡田益吉の「日本陸軍英傑伝」によれば山下大将は「どこから見ても有能、真面目な将軍」と記す。大東亜戦争初戦の英雄であった。”マレーの虎“と言われた。名将であった。昭和17年2月,第25軍を率いてマレー半島1千キロを快進撃してシンガポール攻略した際にも隷下各軍のシンガポール入城を制し、わずかな治安部隊のみを入れて厳正な軍紀を保った。また入城式をやらず敵味方合同の慰霊祭を行った。降伏会場での英軍パーシバル中将との「イエスかノーか」の問答も事実とは異なる。通訳に当たった報道班員が軍事用語に暗く、パ中将との会話がうまくいかなかった。山下将軍が「君はイエスかノ―を聞くだけで良いんだ」と半ば叱責口調で言った。そのあと、同席していたアメリカに駐在経験もある参謀・杉田一次中佐(陸士37期)に通訳を替えてからスムースにゆき、イギリス側も無条件降伏を受け入れた次第。通訳の報道班員に言った言葉が誤解を生んだようである。昭和19年9月、敗色濃いフイリッピンヘ第14方面軍司令官として赴く。敗戦まで彼が比島で何をなしたのか、列記すると、最後の便船「鴨緑江丸」で在比島の婦女子を内地へ送還した。ついで米軍の捕虜1300名、抑留民間人7000人を解放した。この時の比島俘虜収容所長代理であったのは林寿一郎中佐で、すべての処置を終えたのち日本軍に戻り4月、戦死する。また百万市民の安全を図るためマニラを戦場外とする作戦を立てたことなどである。戦い利あらず敗戦を迎えると8月15日ではなく正式降伏調印式が行われた9月2日、ルソン島北部の山間高地の移動司令部から下りて3日降伏調印した。彼の為すこと、すべて理にかない、人情味にあふれている。降伏後モンテンルパ刑務所に収容され裁判に付される。
山下裁判はわずか32日間で結審した。初めから「絞首刑」(12月7日判決)の結論ありきであった。弁護側から出された「助命嘆願」を米最高裁判所は却下したが2人の裁判官が反対意見を述べた。「吾々の歴史において、敵の将軍を軍事活動中の行動故に裁いたことは未だかってない」。このことは東京裁判でもいえる。この裁判で無罪論を展開したインドのパール判事は「不公平な裁判というより裁判という名に値しない。儀式化された復讐である」と言っている。いまだに日本人の多くが東京裁判を是として法務死した7被告の靖国神社合祀を非とするのは不思議でならない。
弁護団の一人フランク・リール大尉はのちに「山下裁判」の著書を出すが読者の反響として「今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないに違いない。戦争というものは、山下裁判の前例に基いて敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できるものであるから」を紹介する(楳本捨三著「陸海名将100選」秋田書店)。
山下大将の辞世の句。
「満ち欠けて晴と曇りに変われども永久に冴え澄む大空の月」
なおマニラ裁判の起訴は78件、起訴された人員237名、絞首刑62名、銃殺刑7名、終身刑33名、有期刑73名、無罪24名、その他38名。被告にされた日本軍将兵はいずれも痛憤の内に次々に刑を宣告されていったと伝えられる。
「命あり治乱時あり残り雪」悠々
(柳 路夫)
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