2014年(平成26年)2月20日号

No.601

銀座一丁目新聞

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花ある風景(517)

 

市ヶ谷 一郎

 

私の靖国神社
 


 その日は、千鳥ヶ渕の桜が満開であった。4才くらいの私は親戚の叔父と、父の従弟につれられて、田安門(現在武道館の入口、皇居北口靖国神社前の門)の外の桜並木の下で多くの人々と並んで父を待った。間もなく屈強のおじさんたちが紋付羽織はかでぞろぞろ出てきた。その中に父の姿を見つけ飛びついた。父は近衛歩兵第一連隊の兵隊さんで、予備役か後備役で、一定期間の特別の訓練が終わり、除隊して来たのだ。当時、田安門は連隊の正門であった。皆で靖国神社にお参りして帰宅したのを覚えている。

 今でも靖国神社にお参りに行くとき、田安門の前を通ると必ずあの時の光景を思い出す。父は「近歩一会」(近衛歩兵一連隊の同窓会のようなもの)の世話人であの鉄の一の大鳥居建立寄贈に精魂込めて尽力した。鳥居右側植え込みに鳥居の断面が安置してあり、表に寄贈の方々のお名前が書いてある。もちろん、父の名もあるので必ず手を触れることにしている。神社直前の「近歩一」の方々は自分たち町内の氏神様と同じように招魂社(旧名はしょうこんしゃ)と言って、靖国神社に尊崇の念とともに親近感を持っていたと思う。

 父は、戦前つまり私の子供のころ、靖国神社は、お正月、お盆や例大祭などことあるごとにお参りに連れて行ってくれた。ほかのお神社は、父が宮世話人をしていたO町の氏神様だけであった。しかし、幼少の私は父の思いをそれほど感じることはなかった。昭和12年(1937)ころまでの靖国神社は一の大鳥居から参道を突っ切る公道までの間、両側には今の縁日のような食い物屋ばかりでなく、芝居、柔術、力比べ、オートバイの曲乗り、ろくろっ首(異形の長い首)のような見世物小屋がかかり、古道具屋、植木屋などもギッシリ並んでいた。社殿裏奥の相撲場には国技館力士の大相撲もあった。実に庶民的で、当時の兵隊さんの外出時の娯楽を考えれば、神社を挙げて英霊にも安んじ喜んでもらおうとしていたのであろう。

 戦後閉鎖になったが、現在ある遊就館の隣には新設の国防館が出来た。当時近代的な新しい展示物に加え、売店には軍用品まがいのものも売っていて好評だった。特に当時の軍が開発した携帯口料で、考えれば幼稚ではあったが今のインスタントの食糧つまり、缶詰以外、乾燥や固形にした加工食品を売っていて、しるこ、みそ汁、おかず、炊飯などは珍しかった。

 帰途、飯田橋駅への道、決まって父は、あるそばやの前で「おい、腹減ったろう?」と声をかける。私の気持ちはお見通しだ。そのそばやでは、私はカツ丼と決まっている。ふだん、こんな高級なもの(?)は食べさせてくれない。あのころは見世物や相撲、屋台の買い食い、帰りのカツ丼で釣られ付いて行ったもので、父の真意が少しも判らず申し訳ないことをした。

 それから満州事変(1931〜)が始まり、日支事変(1937〜)となると時々、戦死された将兵のご遺骨が白い布に包まれ無言の帰還をされるようになった。われわれ児童も学校から駅までお迎えに行くようになって靖国神社の尊さが判って来た。父がことあるごとに、お参りに連れて行ってくれたのは、熱烈な軍人志望の私に無言の教育をしてくれていたのだ。今になって、わが子を国に捧げる覚悟をしていた父の心中を察し胸がつまる。

 「今度会うときは靖国神社で」と、悲壮な覚悟で逝った護国の英霊に、ご遺族を含め多くの日本人がお参りすることを、日本人らしからぬ一部の人や、近隣の国が、政争の具とし容喙(ようかい)する無理解、無礼をするのはぜひやめていただきたい。古来死者を冒涜(ぼうとく)しない、敵味方供養が日本人の心情なのだ。戦争を知らぬ世代に育ったにも関わらず、千万人といえどもわれ行かん、毅然として信念を貫くさすが吉田松陰の教風を汲む、安倍首相に敬意を表し、右顧左眄(うこさべん)することなく、健闘されるよう祈るや切。