安全地帯(421)
−信濃 太郎−
統帥権消滅の日、昭和20年9月2日
森正蔵は「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房)の「昭和20年9月2日(日曜日)曇時々晴」に書き残す。「わが国史のうへに永久に大きな汚濁をのこすべき国辱の日である。 陛下はその使臣に対して降伏条件をしるした文書に調印すべしといふ勅語を賜ひ、その調印式がわが代表使臣重光外務大臣、梅津参謀総長と連合国側代表マッカーサー元帥その他との間に行われたのである」
森正蔵は当時・毎日新聞社会部長。昭和20年11月、満州事変から敗戦までの秘録を綴った「旋風20年」(鱒書房)を出版、ベストセラーとなる。戦後ベストセラーの元祖である。新聞記者取材の基本は”察回りに在り”と戦後いち早く復活させた人でもある。昭和28年1月11日、論説委員長在任中死去、享年52歳であった。
調印式が行われたのは横浜沖に浮かぶ米戦艦ミズリー号(4万5千トン)の艦上。ミズリー号は第3艦隊司令長官ウィリアム・F・ハルゼー提督の旗艦として九州、沖縄周辺の機動戦に参加、3回にわたる特攻機の攻撃を受ける。調印の日本側の代表は二人。一人は「大日本帝国天皇陛下及び日本国政府の命によりかつその名において 重光葵、もう一人は日本帝国大本営の命によりかつその名において 梅津美治郎であった。何故代表が2名なのか、これはマッカーサー司令官の要請であった。調印前の8月22日にフイリッピン・マニラに赴いた参謀次長・河辺虎四郎中将(陸士24期・陸大33期恩賜)、外務省岡崎勝男調査局長に交付されたマッカーサー指令第一号には降伏文書に天皇および政府の代表と大本営の代表の二組の代表者の署名を要求したからである。
実は当時の国務長官ジェームズ・F・バーンズは降伏文書の署名には天皇陛下を考えていた。それを耳にした駐日大使であったジョセフ・C・グルー国務次官が「そんなことをさせたら日本中が蜂の巣をつついたようになる」といさめやめさせたという(松本重治著『昭和史への一証言』(毎日新聞刊)。
代表者の人選がもめた。「大きな汚濁を残すべき国辱の日」の仕事、誰が引き受けようか。重光葵著「昭和の動乱」下巻(中央公論社)には「戦争が一日にして止んだ当時の、日本の指導層の心理状態は特異のものであった。戦争の終結,降伏の実現について責任を負ふことを極力嫌忌して、その仕事に関係することを避けた。この空気において降伏文書の調印に当たることは、公人としては破滅を意味し、軍人としては自殺を意味する、とさえ考えられた」とある。引き受けるものがないのが当然であろう。
当時、梅津美治郎大将は参謀総長であった。初めは「非常に不名誉なことであるからもし代表にされるなら死ぬ」といった。陛下が心配され特別のご沙汰があり緒方竹虎(国務大臣・情報局総裁)も連絡に行ったため全権代表就任をしぶしぶ承知したという。梅津は熊本幼年学校恩賜、陸士15期、陸大23期首席、ドイツ、デンマークに駐在スイス公使館付き武官。2・26事件の時、陸軍省次官として後始末に手腕を発揮した。昭和14年9月ノモンハン事件収拾のため関東軍司令官となる。“後始末”が梅津の運命であったようである。
重光葵は外相であった。重光は喜んでその任務を引き受けた。終戦は重光が待ち望んだことだし降伏が日本の将来を生かす道であることを心から願っていた。調印前、陛下に拝謁の際「降伏文書調印は日本民族を滅亡より救い,由緒ある歴史及び文化を続ける唯一の方法であります。この文書を誠実にかつ完全に実行することによってのみ国運を開拓すべきであり、またそれはでき得ることと思われます」と述べる(前掲「昭和の動乱」)。
後に二人とも東京裁判の被告となり昭和23年11月12日の判決では重光が禁固7年。通訳の日本語を聞かずに退廷する。ソ連検事は重光を「日本の侵略的対外政策の先導者」と人物評を加えて罪を問うた。梅津は病院に入院中で欠席のまま終身刑を言い渡された(昭和24年1月24日死去・享年67歳)ソ連検事の人物評は「対ソ侵略計画の直接指導者」であった(児島襄著「東京裁判」・中央新書)。運命の不運を味わったのは隋員の一人・杉田一次大佐(首相秘書官・陸士37期・陸大44期・米英駐在)であった。マ元帥のそばに特に招かれて米軍ウェンライト中将(フイリッピン方面総司令官・日本の捕虜になった)と英軍のパーシバル中将が立っている。杉田大佐(当時中佐)はマレー半島作戦で山下泰文第25軍司令官の下で参謀として参加、昭和17年2月15日、シンガポールを攻略、英軍のパ中将と降伏交渉で同席、通訳もしている。3年後今度は立場が逆転した。軍人は甘んじて生き恥をさらしても生きていかねばならない。戦後、杉田は自衛隊の陸上幕僚長を務める。
森正蔵の「敗戦日記」を続ける。「降伏調印式は午前9時、横浜湾外の米戦艦ミズリー号甲板で行われた。その時刻を期して10機前後からなるB29の編隊が幾つとなく帝都や横浜や東京湾の上空を縦横に飛び回るのであった。調印式は20分で終わり各国代表の署名が済むと、式場のマイクロホンから連合国側を代表するマッカーサーが放送した。勝ったものと敗れたものとの身分が明らかに世界の隅々まで伝達されたのである。新聞記事と写真とは同盟のみ許可するということになったので各社からはミズリー号に乗り込まなかったが本社は記事をユーピー特派員に写真をアクメ特派員に委嘱した。その記事の報は成功したが、写真の方はあまり良くなかった」
連合国側に日本の新聞、毎日、朝日、読売など16社が取材を希望したが同盟一社2名に絞られた。昭和20年9月3日付けの毎日新聞の2面のトップに「横浜沖合ミズーリ艦上にて加藤同盟特派員発」の記事がある。両全権の署名の姿勢は対照的であった。まず重光全権が加瀬随員(俊一・内閣情報部第3部長)介添への下に椅子に着席、シルクハットを右側に置き、右手の手袋を脱いで万年筆を取り出し、上着の内ポケットから紙を取り出しペン先の具合を確かめた後、二枚たたみとなっている二尺に一尺五寸ほどの大きさの降伏文書の右側の上辺に署名した。紙の白さが眩しいほど光っている。ついでもう一通の文書に署名した。ついで梅津全権が署名した。梅津全権は椅子に腰かけず胸のポケットから万年筆を取り出したまま上半身を曲げ机の上にかがむように署名し、後方に退って静かに眼鏡を外しパックに収めた」。ここで日本の陸海軍は矛を収めた。統帥権消滅してまさに山河残る・・・徳川無声著「無声戦争日記」(7)の9月2日には「東の空から無数の飛行機が出てきた」と降伏調印の文字が見えるが、また「新宿は何の劇場も満員、ことに太閤記を上映している帝都座の入りは大変らしい、角を曲がって一丁ぐらい行列が続いている」とも記す。庶民は早くも娯楽にむさぼりついている。
UP通信特派員ティートソースの記事にはマ元帥が署名に5本の万年筆を使い、ウェーンライト米中将、パーシヴァル英中将、米国政府、ウェストポイント陸軍士官学校にそれぞれ贈ったとある。神奈川県座間の陸上自衛隊にある日本の陸軍士官学校記念室には降伏調印を記念するものはなにもない。「敗軍の将、兵を語らず」・・・・
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