2014年(平成26年)2月1日号

No.599

銀座一丁目新聞

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安全地帯(419)

信濃 太郎


統帥権干犯問題と言葉の魔力


 政友会幹事長・森格がロンドン海軍軍縮会議で受諾した政府の妥協案について「憲法上許されざる失態」と批判してから80年、平成22年3月22日この問題が国会で取り上げられた(第174回国会「財務金融委員会」)。

 竹内譲(公明党)委員が政治と金の問題について鳩山由紀夫総理に質問した際に飛び出している。「戦争(注・大東亜戦争)に至る大きな原因の一つとして、軍部の暴走を政治が抑えられなくなったということが定説として指摘されているわけでございますが、その軍部の政治介入の重大な契機となったのが、当時の民政党の浜口雄幸首相が締結した昭和五年のロンドン海軍軍縮条約と、それが天皇の統帥権を犯すものだとして起こった、いわゆる統帥権干犯問題であったと言われております。当時、野党だった政友会の犬養毅総裁と総理の祖父の鳩山一郎議員が衆議院で、海軍軍令部の意見を無視して軍縮条約を調印したのは統帥権の干犯だとして激しく政府を攻撃しました。昭和5年4月26日の衆議院の議事録がこれでございまして、この二ページから三ページにかけまして鳩山一郎議員の演説が載っておるわけでございます。このことが、その後、政友会と海軍とが結託しての大きな騒ぎに発展し、とうとう翌年、浜口総理が東京駅で狙撃されるという事態も招いてしまいました」

 鳩山一郎が質問した議会は第58回議会で、ロンドン海軍軍縮条約が調印された翌日の昭和5年4月22日から始まった。当時の模様を記者が描くとこうなる。

 「総理大臣が政治的、経済的、種々な方面から(国防上の危険はないと)断定したといわれますが…・用兵の責任者たる軍令部は是では出来ないといっているのであります,しからばいずれが真であるか」

 4月25日、野党政友会総裁の犬養毅が衆院本会議場の壇上から首相浜口雄幸に詰め寄った。

 同じ政友会の鳩山一郎も統帥権干犯論で政府を攻撃した。

「(軍令部長の)意見を蹂躙して・・・・輔弼の機関でないもの(政府)が飛び出して来て、之を変更したと云ふことは、まったく乱暴である」

 政友会は兵力量を決めるのは軍部だと主張、軍部に対する政治の優位を自ら否定して、軍部の独走の道を開いた(「新聞と昭和」上・朝日文庫より)。

 ここで強調したいのは統帥権問題に火をつけたのは野党の政治家であったということ。しかも倒閣の道具にした。政権奪取のためには目の前にある利用すべきものはすべて利用するのが政治家の性でもある。

 明治憲法では11条に「天皇は陸海軍を統率す」とある。その輔弼は参謀本部と軍令部である。作戦に関するものであり疑問がない。12条は「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」とある。これは国務大臣のもとに行使するものである。内閣のみが輔弼の責任を負う。ところが軍令部は統帥権が編成権にも及ぶとし今回の政府の措置は統帥権をないがしろにして憲法上問題ありとして強硬な態度を崩さなかった。山梨勝之進大将は「軍隊は直接統帥のもとにあり、軍人は陛下の股肱である(軍人勅諭)という思想から陸海軍は国家機関中特殊な地位にあり、その立場を尊重し、その特権を保存、維持すべきであるとして、統帥・編成の両大権を固く把握して、軍以外の介入を極力防止しようとする思想があった」と解説する。

 予め東大総長小野塚喜平次(東大同級生)と京大教授佐々木惣一に意見を聞いていた浜口首相は動じなかった。浜口首相は高知の生まれ、大蔵省に入り、専売局長官を最後に第3次桂太郎内閣で逓信次官(大正元年)、大隅重信内閣の若槻礼次郎大蔵大臣の時大蔵次官を務めた(大正3年)。その後政界に入り大正8年から衆議院議員となり、加藤高明内閣の蔵相、若槻内閣の内相、昭和2年民政党の総裁。昭和4年7月首相となる。緊縮財政をとり、ラジオ放送で国民に訴えた。重要政策の一つに軍縮を掲げる。性格は重厚謹厳,寡黙。その風貌から「ライオン首相」と言われた。若槻礼次郎に言わせれば浜口は評判の良い男で後藤新平にかわいがられ、後藤が台湾の民政長官の際に台湾に誘われ、後藤が満鉄の総裁になった際にも満鉄に来いと言われたたこともある。また住友からも重役に欲しいといわれた。浜口は逸材であった。

 新聞も政友会批判の論陣を張り浜口首相の後押しをする。「国際関係を見極め、国民の負担を考えて、国防の事を決するのが立憲政治にあっては内閣の責務…財政も外交も、軍事専門家の仮想敵国際戦争の準備のために犠牲とするのは軍国国家においてのみ見得るところである」(4月26日東京朝日社説=「新聞と昭和 上」朝日文庫)さらに「政党内閣制がようやく固まらんとする今日、かかる時代錯誤の主張が・・・・第2党たる政友会によりて支持されることは、徒に軍閥の優位を認めて二重政府の現存を対外的に暴露し、同時に政友会みずからその政党生命を葬るものといねばならない」(4月30日大阪朝日社説=前掲「新聞と昭和」上)。また毎日新聞の社説(5月1日)も「憲法上の機関に非ざる軍令部長を以て、国務大臣と同等或はそれ以上の職責を有する如き取扱ひ、軍令部の反対意見無視を以て統帥権の干犯となすがごときは,途方もなき謬論である。軍令部長は大元帥の機関であって、国家の意志を決定しその行用を律する機関ではない」(毎日新聞百年史)。これらの社説は軍部の横暴を戒め、それに追従する政党も崩壊の道をたどることを仄めかしている。

 ところで「統帥権干犯」はだれが言い出したのか。『昭和天皇独白録』には北一輝の造語といわれるとある。2.26事件(昭和11年2月26日の青年将校のクーデター)の「蹶起趣意書」に「元老,重臣、官僚、政党は此国体破壊の元凶なり,倫敦条約並びに教育総監更迭における統帥権干犯,至尊(天皇)兵馬の大権の僭窃を図りたる3月事件…」とあるには右の歴史的経過があったのであると説明されている。

 新聞に「統帥権干犯」が載ったのは4月3日付大阪毎日夕刊1面の記事が初めてである。「統帥権干犯で 批准の際し問題か」の見出しがついて文中にも「統帥権干犯といふやうな問題も生ずる場合もあるべく・・・」とある。4月4日には対米7割を貫徹主張する海軍軍縮国民同志会(代表・頭山満)が首相官邸を訪れ「明らかに大権干犯なりと思ふ」と抗議する(「新聞と昭和」上)。作家の杉森久秀さんの話によると北一輝の弟子の寺田稲次郎が「北一輝があれをやかましく言い出した」と言っている。北はロンドン条約で政府を追い詰める手段を考えているうちに条約に「IN THE NEMES OF PEOPLES」(人民の名において)という文句があるのに気が付く。天皇様がいるのに「人民の名において」で勝手に兵力を決めるのは怪しからん。統帥権干犯であると火をつけて歩いたという(半藤一利編著『昭和史が面白い』文春文庫―昭和史の”バケモノ”統帥権―)

 もっとも北一輝は「IN THE NEMES OF PEOPLE」が昭和4年の不戦条約の際にも問題になっているのを知っている。この条約の調印にあたって日本国内では、第1条の「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」に枢密院や右派から大日本帝国憲法の天皇大権に違反するとする批判が生まれ、賛否両論が起こった。外務省はアメリカに修正を申し入れたが、修正には応じられず、人民のために宣言すると解釈するとする回答を得たに止まった。政府は、昭和4年6月27日、「帝国政府宣言書」で、該当字句は日本には適用しないことを宣言し、批准されたといういきさつがある(ウイキペデイヤより)。今回、北一輝は「統帥権干犯」という造語を思いつき軍備問題で政府を攻めたわけである。

 寺田稲次郎は全国的日本主義政党として昭和4年11月に生まれた「日本国民党」(顧問頭山満、内田良平,統制委員長西田税)に執行委員長として名前が載っている。この青年部に血盟団の小沼正、菱田五郎、川崎長光、里崎大二、黒沢金吾の名前を連ねている。

 言葉は魔力を持つ。農村恐慌・娘の身売りの世相もその力をさらに増す。革命児北一輝の造語「統帥権干犯」は右翼が軍部と組み。軍部は政党と結託し政党は軍部を利用し日本を動かしてゆく。その魔力は様々な不祥事を起こしながら国を破滅する。