2014年(平成26年)1月20日号

No.598

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追悼録(514)

法務死した本間中将に示した米軍大尉の好意

 友人に勧められて高杉善治著「平成の天皇の青春の日々」(日本館書房・2001年9月発刊)を読んだ。高杉さんは陸士37期、昭和20年4月から学習院の軍事教官兼皇太子殿下の軍事教育御用掛を務められた方である。また戦後、皇太子さまにテニスを教えられ、間接的にはテニスを通じて美智子妃殿下との恋を実らせた人でもある。さらに言えば、その夫人は同期生別所末一君の長姉である。毎日新聞時代、皇太子のお妃取材班の一員としてご成婚までを取材したものとしてこの本は興味深かった。

 高杉さんは昭和21年1月、フイリッピン・マニラで行われている本間雅晴中将(陸士19期・陸大7期・恩賜・英駐在)の軍事裁判に弁護士側証人として出ておられる。本間中将は先の大戦での比島作戦で投降した7万5千人の米比兵を60キロの死の道を行進させ多くの兵隊を死に至らしめたというので銃殺刑の判決を受けた(昭和21年2月11日)。高杉さんと一緒に弁護に法廷に立った本間中将夫人富士子さんは「二人の娘がおります。嫁ぐことになりましょう。その時は必ず本間のような男性を選びます。私は本間の妻であることを誇りに思っております。子供たちも立派な父を持ちえたことを心から誇りに思っています」と証言する(杉田幸三著「日本軍人おもしろ史話」毎日新聞刊)。

 本間中将自身「部下の行為については喜んで責任を分かつ。戦場で死んだ日本軍将兵の仲間入りをしたい』との言葉を残す(「戦場の名言」指揮官たちの決断・草思社刊)。
本間中将が第27師団長時代(昭和13年7月から昭和15年11月)、専属副官であった高杉さんは「人格高潔で人情に厚く、高邁な識見を持ち学識も深く、軍人にめずらしく文化人であった」という。陸軍省新聞班長時代(昭和7年8月から昭和8年7月)その時局解説が懇切丁寧で外人記者団から好評で“ジェントルマン本間”の異名をとったと伝えられている。

 公判中、富士子夫人は本間中将との面会が許された。時間は30分ということであったが広間の応接室のカギを持ったデラメインという憲兵大尉が外出したままなかなか帰ってこない。3時間後やっと、よっぱらって帰ってきた。彼が言うには「あんな立派な夫婦を生きながら決別させるなんて本当に罪なことだ。せめて私のできる範囲の最大限の時間を、我が敬愛するご夫婦に差し上げようと思い外に飛び出した。時間を忘れたことにして面会時間を延長した。そのために処罰されるなら喜んで受けるつもりだ」。高杉さんは憲兵大尉のこの好意に涙したという。米国の軍人にも人の情けが分かるものがいる。

 本間中将が処刑されたのは昭和21年4月3日、今はなくなったが神武天皇祭であった。享年59歳であった。

 

(柳 路夫)