2014年(平成26年)1月20日号

No.598

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花ある風景(514)

 

湘南 次郎

 

最後の持ち物
 


 「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」一休さんの狂歌である。かく言う小生、本年、目出度く(?)米寿(88才)となった。産んでくれた両親には申し訳ないが、とっくに両親の亡くなった歳を越えて、まだどうやら生きている。自慢じゃないが、大正、昭和、平成と波乱万丈の聞くも涙、語るもお笑いの人生を間もなく終わろうとしている。一休さんの言葉が判るようになった。新年を迎えても以前のような「今年こそは」との意欲もなくなり、もう一花咲かそうなど大それた娑婆っ気もなく、大げさな遺言書作成にうつつを抜かすほど財産もなく、今は静かに、静かに、陸軍士官学校の同期生、牧内節男君(主幹の牧 念人氏)と、からかい、からかわれながら彼のブンヤらしい力作、「銀座一丁目新聞」を愛読したり、投稿したり、交友を深めている。人間最後を遅かれ早かれ迎え、狭い箱に入れられて、普段あまり乗らぬ超高級車で火葬場へ行くことになる。その際、お棺に一緒に入れてもらう、あちらへ行くための携行品について小生なりに考えている。

 命、永らえるごと、だんだんに携行品が増えるが、その一部をお披露目する。まず、「坂東三十三か所観音霊場納経帖」いわゆるご朱印帳。一念発起、昭和56年(1981)4月2日一番札所鎌倉杉本寺より、旅行の日程上、順不同になったが、関東一円にある古刹観音をめぐる単身の参拝巡礼を始め、62年(1987)4月1日、最後の難関、茨城、福島県境の標高約1,000bの八溝山日輪寺を最後に満願し、三十三ケ寺よりいただいたご朱印の記録である。つぎは「西国三十三観音霊場納経帖」、これは生来の旅行道楽の産物で、札所付近の名所、旧跡を訪ねながら、ついでと言っては申し訳ないが、近所の霊場でご朱印をいただく。昭和46年(1971)4月1日第十六番音羽山清水寺(京都)を第一回に、これも順不同だが、平成9年(1997)10月31日岐阜県谷汲山華厳寺をもって満願した。このとき、なぜかご朱印をいただきながら、極楽に近づけたのか涙がポロリ。江戸時代にさかんになった札所巡りは、みな観光地かその近くにあり、たとえば清水寺は京都、杉本寺は鎌倉や江の島と観光には事欠かない場所にある。道楽者の小生が目を付けたのも無理はない。冷汗三斗、妻の理解に感謝するも、えらい月謝 だった。そこで本年の計画は小生、鎌倉在住を利用し、カネのかからぬ「鎌倉三十三ケ所観音霊場」巡礼、ご朱印をいただき、納経帖を作ろうと思っている。 

 つぎにぜひ、入れてもらうのは、靖国神社のお札、それと昨年9月13日行われた最後の陸軍士官学校第五十九期同期生会で記念にいただいた『陸軍予科士官学校入校70周年記念「振武臺」』の手拭いである。この題字は、かつて学校本部正面に掛けられていた扁額よりコピーしたものだ。青春の思い出を胸に掛けてもらうのも悪くないだろう。また、小生も愛用した、両親の使った杖、孫(現在34才)が6才のときにくれた「新じいちゃん 朝いっしょに 共に歩こう」のメモ、信州在住の同期生、花岡郁夫君よりいただいた「般若心経」の写経の掛け軸、本年、小生に米寿祝をしてくれ、一族が一堂に会した曽孫2名を含む記念写真。それから、大好物の虎屋の羊羹等々、夢は湘南の空を駆けめぐる。

 あ、そうだ一番肝心なことを忘れていた。我が身をつらつら反省するに、どこかで聞いた言葉だが、オレは三途の川を渡ってから地獄へ行くか、極楽へ行くかそれは問題だ。