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安全地帯(418)
−信濃 太郎−
ロンドン海軍軍縮会議と財部全権、加藤軍令部長
草刈英治海軍少佐が抗議の自決をしたロンドン海軍軍縮会議は軍人暴走の序奏となり、その火付け役は統帥権干犯を叫んだ野党の政治家が演じる。さらには「軍縮をめぐる対立が政治的危機を惹起することになる。そこに真珠湾に至る30年代の動乱の序曲とみることも可能であろう」と学者が指摘する(同志社名誉教授麻田貞雄「ワシントン海軍軍縮の政治過程」より)。時代は次第に激動してゆく。まずロンドン軍縮会議を追及する。
昭和4年11月30日、若月礼次郎元首相,財部彪海軍大臣ら日本全権団一行は浜口雄幸首相,安達謙蔵内相、渡辺千冬司法大臣、小橋一太文相、宇垣一成陸相、幣原喜重郎外相、松田源治拓務大臣、町田忠治農林大臣らに見送られて横浜港からサイベリヤ号(日本郵船所属・11790トン)でサンフランシスコに向けて出港した。いまどきこんな見送り風景は見られまい。まずアメリカに向かったのは、アメリカから「渡英の途次米国に立ち寄られたし」と招待を受けたからである。米国側は事前に日本側の腹を探ろうとしたものであった。若槻全権は小賢しい事を考えてもたいした結果が得られまいと、アメリカに着くと多数の記者たちに「7割、総括的に7割でなければない」と率直に発表した。結果的にはこの方がよかったという。外交とは「祖国のために偽りを言う愛国的行為」ともいうが勝海舟は「外交の極意は誠だ」と喝破する。当時、海軍次官山梨勝之進中将(海兵25期・ワシントン海軍軍縮会議随員・のち大将)は「日本の取り組んだ軍縮は、相手がアメリカであり、軍人にとってこの軍縮は弾丸を打たない戦争であった」と評する(山梨勝之進著『戦史に見るリーダーシップの条件』毎日新聞刊)
すでに日本案はできていた。加藤寛治軍令部長(海軍大将・海兵18期・首席)、末次信正次長(当時中将のち大将・海兵27期・海軍大学7期・優等)のもとで作られた。今回の会議はワシントン会議で締結された五・五・三の比率の主力艦の海軍軍縮条約を補助艦(大型巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)まで拡大しようというもの(昭和5年1月21日から日・米・英・仏・伊の5ヶ国で開催)。日本案は1万トン8インチ砲巡洋艦においては英米いずれを問わずその大なる方の7割を確保すること。A潜水艦は昭和5年の末における勢力は7万8千トンを保有すること。Bその他の補助艦は協定総トン数より1万トン巡洋艦及び潜水艦を除いた範囲内において補助艦総括約7割なる如く保有すること。これが海軍の言う「三原則」であった。
明治以来「富国強兵」の道を歩む日本の軍事費は年々増加の一途をたどり軍事費が国家財政の3割に達していた。昭和5年の国の予算は1597(単位百万円)軍事費443(同じ)比率28・5%である。昭和6年以後31.2%、35.9%、37.9%と毎年上がり続け昭和9年には44パーセントに達している。ちなみに昭和5年の国民所得は一人当たり日本が165円、米国が1116円である。日米の国力の差は歴然としていた。国力を抜きにして軍備を語ることはできない。これは昔も今も変わらない。
海軍では昭和4年夏ごろから海軍から出す軍縮会議の全権を誰にするかでもめていた。結局、財部海相が自ら買って出て全権となる。海軍の専門的知識がない元首相・若槻礼次郎が全権に選ばれたのには理由があった。彼が露都を訪問した際、ロシアの財政では軍艦製造費が経常費から支出されていることを知った。日本では臨時費で賄っているためいつも財源に困ることから製艦費を経常費から支出する方が良いと主張したことがあった。このため海軍に理解があるとみられたからだと本人自身が言っている。
ロンドン会議は決裂寸前までいったが、結局は総トン数比率7割(69.75%)だけを認めた妥協案が成立した。条約は4月22日調印(批准10月2日)された。
ロンドン会議で決まった補助艦協定を整理すると次のようになる。
大型巡洋艦 対米 6割2分
軽巡洋艦 対米 7割
駆逐艦 対米 7割
潜水艦 対米 十割
平均 6割9分7厘
軍令部が不満とするのは
1、 八インチ巡洋艦の7割の要求を6割2部に削減した。
2、 7万8千トンの潜水艦の保有も5万2700トンにへらされた
3、 米国の巡洋艦建造に十分整備権能あたえるものだ
という3点であった。
この時、日本の交渉メンバーは若槻首席全権、財部海軍大臣のほか松平恒雄駐英大使、永井松三駐ベルギー大使。顧問として安保清種大将(海兵18期・英駐在・男爵)、樺山愛輔、随員として迫水久常、山本五十六(海兵32期・当時大佐のち少将・米駐在)、豊田貞次郎(海兵33期・当時大佐・海軍大学17期・優等)、中村亀三郎(海兵33期・当時大佐、軍令部作戦課長・海大15期)、岩村清一(海兵37期・当時大佐・海大19期・優等)、山口多門(海兵40期・当時中佐・海大24期・優等)、大蔵省から津島寿一、賀屋興宣(当時主計局長)、外務省から佐藤尚武、斉藤博(情報局長)、陸軍から前田利為(陸士17期・当時大佐駐英武官・陸大23期・恩賜)、内閣から法制局長官川崎卓吉らが出席した。
全権の一人財部彪海相は「日本海軍育ての親」と言われた山本権兵衛大将の長女いねを妻とする。海兵首席卒業の財部の昇進のスピードは同期生より4年も早かったといわれる。大正12年5月加藤友三郎内閣(海兵7期・ワシントン会議全権)で海相となって以後6代の内閣で海相を務める。だが成立した軍縮条約は対米7割の補助艦保有率を主張する海軍軍令部案を押し切ったものであった。加藤軍令部長は「財部の腰抜けものが、この条約はいったいどうしたことか」とテ−ブルを叩いた。海軍次官山梨勝之進中将は軍令部長室に呼びつけられ「貴様腹を切る勇気があるのか」と怒鳴られた。加藤軍令部長は条約成立まで3回も浜口雄幸首相の合い「ロンドン協定はアメリカ案を押し付けたものだから同意できない」と頑強に反対した。浜口首相は昭和5年4月1日の閣議で妥協案を支持し全権団にその旨回訓した。海軍では「条約派」と「艦隊派」に分かれ、人事にも影響する。
加藤寛治軍令部長に触れる。幼少時は「意気地なし」「弱虫」であったが長じて発奮して心身を鍛え「直情径行」肌の熱血漢に成長する。海兵18期の首席。この期で大将になったのはロンドン会議の全権顧問の安保清種(昭和5年10月3日海軍大臣=浜口内閣)の二人しかいない。ワシントン軍縮会議(大正10年11月から11年2月まで)では全権加藤友三郎大将(海兵7期・日露戦争では連合艦隊の参謀長・第2次大隈内閣の海軍大臣、以後7年10ヶ月海相)のもとで首席随員を務め、加藤全権が主力艦保有率を対米6割でやむなしとしたのを7割の軍備を強硬に主張して手こずらした男である。その後、軍令部次長を経て連合艦隊司令長官(大正15年12月)となった加藤はその苦衷を敬愛する東郷平八郎元帥(草創期・日露戦争時連合艦隊司令長官・大正2年4月元帥・伯爵)に訴えると、東郷は「艦数は制限できるかもしれないが訓練は制限できない」と答えたという。そこで加藤は米国より戦艦の数が少ないという劣勢を猛訓練で補う方針を示し、それを実行した。それが有名な「月月火水木金金」の言葉である。実戦さながらの訓練で大事故が起きたが不問に付された。昭和5年1月に軍令部長に就任、ロンドン海軍軍種会議の日本海軍の軍縮案を作成する責任者となる。その案が妥協を余儀なくされた。くすぶる不満が大きくなり問題を起こす。
昭和5年4月2日、加藤軍令部長は「政府の最後案は我が国防上非常に困難を与えるものである」と帷幄上奏したと伝えられる(前掲「旋風20年」)。当時、財部海相はロンドンから帰朝していなかったが上奏内容について「政府の意見とほぼ一致したもので、至極穏当なものであった」という(『昭和天皇独白録』寺崎英成御用掛日記・文芸春秋刊)。さらに「独白録」は続く。「加藤が辞表を出したのは、財部の帰朝後の事であるが、それは次のような経緯がある。当時軍令部次長の末次信正は、宮内庁御用掛として私に軍事学の進講をしていてくれたが,進講の時,ロンドン会議に対する軍令部の意見を述べた。これは軍縮に対する強硬な反対意見で加藤軍令部長の上奏内容と異なるものであった。そして末次は後で加藤にこのことを話したと見え、加藤は図らずも軍令部の意見が天聴に達し云々の言葉を用いて辞表を直接私のところに持ってきた。末次のこの行為は、宮中、府中を混同するけしからぬことであると同時に加藤が海軍大臣の手を経ずに辞表を出したことも間違っている。私が辞表を財部に下げたら財部は驚いて辞表はどうか出さなかったことにしていただきたいといった」とある。驚くべき海軍軍人の所業である。この「独白録」には「注釈」がつく。4月2日の午後、浜口雄幸首相はロンドンへ送る条約妥結すべしの回訓案を、昭和天皇に上奏することになっていた。が、その日の午前、首相より先に断固反対を天皇に願い出ることを、加藤が悲壮な決意で申し出てきた。それを鈴木侍従長が海軍の先輩として諭して思いとどまらせた。(注・鈴木貫太郎侍従長は海兵14期・加藤の前任の軍令部長であった)加藤は納得して下がり、翌2日に穏やかな意見に内容を改めて上奏することになった(これが後に統帥権干犯騒動が起きた時、上奏阻止と非難され、上奏権干犯の暴挙と侍従長は攻撃された)。財部海相は5月22日帰国。6月10日加藤軍令部長は政府を弾劾する上奏文を奏上して直接に昭和天皇に辞表を提出した次第であった。だが、政府が軍縮案受諾を伝える回訓案を閣議決定した4月1日野党政友会の幹事長・森格は早くも「憲法上許すべからざる失態」と批判する。ここに「統帥権干犯問題」が浮上する。
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