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ロンドン海軍軍縮条約問題と海軍少佐の自決
牧念人 悠々
「温故知新」。歴史に学び、それを生かさなければならい。今年は歴史を軍事問題と外交問題に絞って勉強する。前から気になっていた「統帥権問題」から手掛ける。調べているうちロンドン海軍軍縮会議に絡んで草刈英治海軍少佐(海兵41期)が自決したのを知った。そこで様々な人物を登場させながら統帥権問題を追及したい。
今から84年前の出来事である。昭和5年5月20日午前3時半ごろ、神戸発東京行急行列車が東海道線富士駅付近を進行中2等寝台第11号寝台から血がながれているのを寝台係給仕が発見、カーテンを開くと、海軍士官の軍帽をかぶりパジャマ姿の乗客が右手に持った海軍の短剣で腹部を真一文字に切り苦悶しているのを発見、沼津駅で病院に収容したが死亡した。
新聞記者はこんな描写をする。「東海道線沼津駅に差し掛かった上り急行列車の後尾の寝台車のデッキから、白服の列車ボーイが何かしきりにわめいていた。沼津駅の助役が、何事が起きたのか狼狽してかけつけると、列車ボーイがオロオロ声でしゃべっていた。事件はたちまち大きくなった・・・・」。
この記事を紹介する森正蔵著「旋風20年」(光人社刊)では事件が起きた時間を5月20日夜11時ごろとしている。前記の午前3時半ごろと食い違う。死亡した海軍士官は軍令部フランス班参謀・草刈英治少佐(40歳)であった。4月22日、ロンドン海軍軍縮会議で日・米・英3ヶ国が軍縮条約に調印した。だが、政府の回訓をめぐり軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたこと、潜水艦保有量が希望量に達しなかった2点を理由に条約拒否を強く主張していた。また統帥権干犯問題などが起きていたときだけに、ロンドン条約への”抗議死”と言われた。遺書の最後の13文字が発表されぬまま抹消されたので真意は明らかにされなかった(最新・昭和史辞典・毎日新聞刊)。
「旋風二十年」によると、「ロンドン条約のお詫びのため、国民の前に死を以て報ずる」旨の遺書があったという。草刈少佐はロンドン条約当時、パリ大使館付武官補佐官であった。ロンドン会議にも専門委員の一人として出席、非常に勤勉に首席随員・左近司政三中将(海軍軍務局長・海兵28期)を助け努力していた。
草刈少佐が自決した列車には、帰国の途次の軍縮会議全権、海軍大臣・財部彪大将(海兵15期・海兵首席)が乗車していた。自決の5日前の5月15日には、私淑していた山下源太郎大将(海兵10期・草刈少佐海兵在学時の海兵校長)をその邸に訪問している。不在で会うことはできなかった。5月17日は長女の誕生日であったが、米村末喜中将(海兵29期・草刈少佐の海兵、練習艦隊、海軍大学の恩師)の招きで昼食をともにし、その後誕生祝を行い、さらに米国駐在を命じられた保科善四郎中将(海兵41期・海軍大学23期)を送別する同期生の会合に出席。その夜、外遊から帰国する長兄雄治(関東都督府技師)の帰国を親戚と一緒に出迎えるため神戸に赴いている。草刈が兄・雄治を出迎えたとき着用していた軍服は新調したものであった。親戚一同との別れ際における草刈少佐は、普段と様子が異なっていたという。その後京都へ向かい、敬慕していた妙心寺の僧・西山宗徹に会おうとしたが、西山は不在で面会できなかった。自決はその帰途であった。人は死を覚悟するとこれまで親しかった人とそれとなく別れを告げる。海兵同期の小西千比古大佐(独駐在・昭和12年12月企画院調査官・昭和15年7月予備役)は、草刈少佐が車中での自決を選んだ理由を、家族に会うと決心が鈍ることを恐れたのであろうと推測している(ウィキペディアより)。
同期生の草鹿龍之介中将、小西大佐、家族は現地へ急行し、草刈少佐は小西大佐が到着するのを心待ちにしていたが、臨終には間に合わなかった。看取った憲兵分隊長は「実に美事なる御最期でありました」と語っている。懐中には藤田東湖の回天詩とともに遺書があった。藤田東湖といえば幕末の水戸藩の学者で攘夷派の武士たちに大きな影響を与えた人物である。「回天の詩」は次のようなものである。
三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。
(三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと)
時に草刈少佐は40歳。海兵卒業時(大正2年12月)の成績は118名中12番。41期生は16人が海軍大学に23期から26期まで入学するが41期生としてはただ一人の入学となる26期(22名、大正15年)である。41期は43人が将官まで昇進している。おそらく草刈少佐にも栄達の道が開けていたであろう。だが明治生まれの男には栄達は眼中にない。40にして迷わず。自分の気持ちを「回天の詩」に託したのである。詩を意訳すれば、「気が付けば自然と安易な道を選ぶようになりつつある。それでも忠義の心はある。今ここで大義を明らかにして、人心を正しく導かねば、日本の進む正しい道を起こすことはできない。その努力を死ぬまで続けたい」ということになる。草刈少佐の自決はロンドン海軍軍縮条約締結に抗議したものであるのは明らかである。
抹消された13文字について小西大佐は「今日の時代が、一箇の歴史として研究されるまで公にする事は出来ない」としながらも「己の死を以て訴えるべきものを訴えるべき人に訴えた」と語った。草刈少佐が自決当時軍令部で同僚であった草鹿中将は、帰国の途にある全権団が歓迎されていることに草刈少佐が衝撃を受けたと述べている。草刈少佐の自決はロンドン海軍軍縮会議をめぐって紛糾した統帥権干犯問題に少なからず影響を与えた。抹消された13文字はおそらく人を誹謗するものであったろうと推測するが、事の真相を明らかにしないと物事は意外な方向に発展するのは歴史の教えるところである。秘密は少ない方が良いという今日的教訓を与える。
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