2013年(平成25年)12月20日号

No.595

銀座一丁目新聞

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安全地帯(415)

信濃 太郎


「ドクトル住吉・ヒマラヤ彷徨記」


 尾形好雄編著の「ドクトル住吉 ヒマラヤ彷徨記」という本が世に出た(10月22日発行)。ヒマラヤ南西壁を含めてグラビア写真63枚、322パージの本である。部数限定500部。過日、東京で米寿と出版を兼ねてお祝いの会が開かれた。出席は90人を超えた。住吉さんはたくさんの人たちに祝福され、まことに幸せ者である。これも住吉さんの日ごろの仁徳であろう。私と住吉さんとのかかわり合いができたのは平成5年12月、今から20年も前の事である。群馬県登山連盟の登山隊がサガルマータの南西壁からの登頂に成功した。この時、住吉さんは医者として参加する。この登山を支援しましたのがスポーツニポン新聞。それ以来のご縁である。サガルマータ登山に当たり、登山隊長の八木原国明さんが住吉さんに「若くて腕の良い医者を探してください」と頼む。この時、住吉さんは68歳。確かに腕はよいが若くなかった。その時、名乗りを上げたのが住吉さん自身であった。このヒマラヤに対する熱い思い、山男の誇り,自負,自信、頭が下がった。その後、「スポニチ登山学校」でも講師を務められ、しばしば話し合う機会があった。安倍晋三首相の父親・毎日新聞出身の安倍晋太郎さんとは第6高等学校の一年後輩、しかも剣道部で一緒であった。大阪大学医学部のインターン時代、他人名義の鑑札で船医を務め世界中を旅したなど面白い話をたくさん聞かされた。人は見かけによらないというが住吉さんが名医にして名登山家であることはこの本が見事に証明している。1970年エベレスト日本人初登頂(JACエベレスト登山隊・44歳)、P−29初登頂(第4次登山隊・阪大隊・登攀体長・45歳)。1973年エベレスト秋季初登頂(第2次エベレスト登山隊・46歳)1981年ポゴタV峰初登頂(天山会・内田良平隊長・54歳)1993年冬季サガルマータ南西壁初登攀(群馬県山岳連盟登山隊・67歳)。その登山歴は誇るに十分である。1958年ヒマルチュリ登山隊の医者をだれにするか難航した際、日本山岳会会長を務めたこともある山西寿雄さんの推薦で住吉さんに決まったことがあった。山西さんは住吉象について次のように言う。「彼は第3次マナスル隊の時、東京まで出てきててつだってくれてその酒豪ぶりはよく知っていたがまず医者らしくないのんびりした人であること、外科専門で船医として海外にも何度も出た人であることなどが決定の理由であったが,高所であんなに頑張って働いてくれるなど当時は考えてもみなかったことである」。住吉さんの面目躍如たるものがある。時に32歳。それから56年、いまだにその若さと山への熱き想いを保っている。山男よいつまでも健在であれ・・・