2013年(平成25年)11月1日号

No.590

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追悼録(506)

特ダネ号外を出した久富達夫さん

 善行雑学大学(場所・藤沢市善行公民館ホール・10月20日)で元NHKプロデューサー間宮章さんの「玉音放送をめぐるエピソード」の話を聞いた。昭和20年8月15日正午、昭和天皇は「終戦の詔勅」を読み上げられ「堪えがたきを堪え忍びがたきを忍べ」と諭され戦いの矛を収められた。この詔勅により大きな混乱もなく敗戦処理がすすんだ。当時天皇が直接、国民に向けてお話しされることは前代未聞であった。「玉音放送」を天皇に進言したのは下村宏情報局総裁であった。このアイデアを出したのは情報局次長の久富達夫さんであったという。驚きであった。久富さんは毎日新聞の前身・東京日々新聞の名政治部長と言われた人である。久富さんは号外による特ダネを書いた記者である。昭和12年1月23日、広田弘毅内閣が総辞職し25日、後継に宇垣一成大将に組閣の大命が下った。ところが軍部は宇垣大将が軍縮を推進したなどの理由で陸相を出さず組閣は難航した。当時、組閣本部の組閣参謀長は林弥三吉中将(陸士8期)であった。久富さんは林中将が第4師団長時代からの知り合いで、直接極秘電話が出来る仲であった。林中将は楠公研究家として知られ、『文武権の限界とその運用』という著書で軍の政治への介入を戒めた軍人であった。時に久富政治部長38歳であった。

 最後の日、1月29日の未明に林中将から電話があった。「もう駄目だ。宇垣大将は最後の手段として、窮通の道もあろうかと、陸軍大将を辞して文官になることを決意したが、それも駄目だ。ついては最後の決意をせざるを得なくなった真意を国民に知らせたい、と大将が言われる。もちろん組閣本部では発表するつもりだがおそらく発表と同時に軍は差し止めて仕舞うだろう。何とか良い方法はないであろうか」という内容であった。久富政治部長が考えついたのが「号外発行」であった。軍が気がついて号外発行を差し止めするまでには時間が掛かり、号外は広範囲にばらまかれる。「特ダネ号外」が発行された。予想通り軍は早速、差し止め命令を出した。すでに東京市内はもちろんのこと地方へも行き渡ってしまった。当時、宇垣大将の組閣断念の真意は東日の号外以外は知らされなかった。

号外の内容は次の通りである。

 号外の見出しは「宇垣氏、陸軍大将を辞す 軍の現情遺憾に堪えず」
 「29日午前9時半宇垣内閣組閣本部にて参謀長格の林弥三吉中将の発表するところによれば陸軍の反対に遭うて組閣難に陥った宇垣大将は29日遂に陸軍大将を辞することに決した。同大将は右決意に当たって陸軍の長老たる鈴木荘六,河合操両大将に挨拶状を送ったがそれによれば同大将の決意の動機は『今はファショか日本固有の憲政かの分岐点に立ちありと信ず、軍を今日の如く政治団体的状態に至らしめたるは予もまた微力その一部の責を負ふべきなるも聖明に対し轉た恐懼に堪えず,然も永年愛する処の軍がこのごとき情態に至りたるは実に遺憾に堪えず』といふにある」

 宇垣大将は参内して大命を拝辞した後、東日の号外が己の真意を伝えてくれたことを知って嬉しそうだったという。いつの時代でも真相を報道するには勇気がいるものだと「毎日新聞百年史」は綴っている。久富さんが亡くなったのは昭和43年12月29日、享年70歳であった。

 

(柳 路夫)