安全地帯(410)
−湘南 次郎−
転ばぬ先の杖
台風26号に遭遇した大島の目を覆うばかりの惨状を拝見し、多大の犠牲者の方々に心よりご冥福をお祈り申し上げます。また被害を受けた方々にお見舞いいたします。
古来、指揮官の状況判断、決心の難しさ、特に人命にかかわるときは、なおさらだ。時に、指揮官(町長・副町長)が不在にするかどうかの判断は、台風襲来一週間前から予報で判る。午後6:30、都よりのファックス見落としを含め、大雨や土砂災害警戒情報による対処を行わず、職員の夕方の退庁など、無責任態勢のそしりは、免れない。なぜ、午後5:38大雨警報(大島は異常とテレビでも放映されていた)、午後6:05の土砂災害警戒情報で初動の避難を考えられなかったのだろうか。翌、未明襲来してからの「避難は困難、危険でやたら避難命令は出すべきではない」というのは一理ある。町長も無念であろうが、それは釈明であって多大の損害を出してしまった責任は問われなければならない。まして、この台風の進路が判っていているのにどんな理由があるにしろ、副町長まで不在とは責任観念の欠如は問題だ。
勿論、無責任にあとで、とやかく言うのは、誰でも言えるし、失礼があればご寛容いただきたい。ただ、事後の真剣な対応は評価し、この事故を教訓として今後の復興に尽力されることを願う。
元町は昭和61(1986)年、三原山が大音響とともに噴火し、自衛隊、東海汽船、近隣の漁船まであらゆる船を動員して全島1万人を13時間40分で一人の死者なく避難させた立派な実績がある。溶岩は元町のすぐ近くまで流れ下って来たのだ。その時、我々は島が夜、真っ赤に染まったのを鎌倉から望見している。そして、その溶岩の流路が奇妙に今回の土石流の流路と符合する。古い元町の人々ならそれが判っていたはずだ。官民ともに予想外の豪雨で山が崩れ土石流になるとは考えられなかったのか、危機感はなかったのか。
鎌倉も似たような地形が多い。粘土質の岩盤の上に1〜3mの砂まじりの土砂が堆積し、樹木は、根が下に伸びず横に張るのだ。暴風雨ともなれば樹木は煽られ、雨水は浸透しても岩盤と土砂との間を流れる。そして土砂は樹木とともにすべり崩れる。特に傾斜地は危険だ。報道写真で大島も溶岩の上に堆積した火山灰上に生えていた樹木がそっくり落ちている。今回、鎌倉も危険地に避難命令がなく、4mもある岩が崩れ落ち、家をつぶしているが住民は助かったのは幸いだったが問題を残したようだ。
伊豆大島は、小生在住の鎌倉より晴天なら、相模湾をへだて、噴煙をたなびかせ静かに横たわっているのが見える。小生の大島訪問は75年も前の中学2年の 修学旅行だけで、当時は元村(現在元町)から波浮(はぶ)で一泊、三原山へ登り、噴火口を見て元村へ、全行程徒歩であった。元村は東海汽船が着かず沖からはしけで連絡していた。いまの開けた大島とはだいぶ違うと思うが。あの当時、ものすごい風が吹き荒れた火山灰地、ごつごつした溶岩で歩行に苦労した。やはり、離島の火山のきびしい自然はいまも変わっていなかった。
安全なところへ避難させることが、空振りでもいい。あとで馬鹿にされようが、笑われようが、非難されようがいいではないか。石橋をたたいて渡る堅実さが大切なのだ。先見性、責任観念が欠如した指揮官を選んだ住民も悲劇であった。かつての大噴火で、全島避難の大決断をした大島が、今回、避難の時機を失したのは、悔やんでも悔やみきれず残念だ。
古人いはく「転ばぬ先の杖」と。
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