花ある風景(506)
並木 徹
スポーツはいつの時代でも感動を呼ぶ
毎日新聞時代の友人堤哲君から『早龍会50年記念誌』(A4判,144頁、非売品)をいただく。早龍会とは早稲田大学を昭和39年(1964年)に卒業した体育局運動部39部の同期会をいう。39の運動部員たちが綴った思い出は感動的である。3人のオリンッピク銅メダリストの話もある。部外者にも生きる喜びと人生への指針を与えてくれる。
私の長兄が早稲田を出ているので6大学野球は早稲田フアンである。冒頭に3シーズンぶりに20回目の優勝を果たした昭和35年秋の早慶6連戦のドラマを残されたスコアとともに伝える。6連戦の立役者は安藤元博投手(1996年死去・56歳)第2戦を除く5試合49イニングを投げ抜いた。投球数564球であった。優勝後の安藤投手の言葉がいい。「僕の力ではない。神が僕に味方してくれたのでしょう」。スポーツマンにはこの謙虚さがほしい。石井連蔵監督は「主将を中とした人の和」を勝利の原因に挙げた。ちなみに1回戦2対1で早稲田の勝ち、2回戦4対1で慶応の勝ち、3回戦3対0で早稲田の勝ち、優勝決定戦1対1、延長11回日没で引き分け、再試合0対0、延長11回日没で引き分け、再々試合3対1で早稲田の優勝となった。
好きなラグビーの部を取り上げる。左プロプ(1番)が英語の試験で下級生に替え玉させた不祥事が載っている。その男は1年留年することになった。関東大学対抗戦で連敗した際、気持ちを引き締めるためキャブテンが頭を丸刈りにしたところ真っ先に応じたのがその男であった。すると4年生も3年生、2年生もこれに倣った。おかげで後の試合は連戦連勝、6勝2敗で対抗戦は2位に終わった。スポーツには気を引き締め、心を一つにするのがいかに大事であるのが分かる。その問題の男は卒業後オーストラリアに渡り、観光業を営み見事な英語を操るようになったという。人間の一生はわからない。横山白虹は「ラガーマン その勝ち歌の 短かけれ」と詠った。
「馬術部」には天皇陛下が皇太子時代美智子妃とともに東京世田谷の馬事公苑で開かれた全早稲田対全学習院大定期馬術戦においでになった話が紹介されている(昭和36年11月5日)。皇太子さまが選手として出場され障害Aで栗毛「朝萩」に乗馬、12の障害を次々に飛び越えられたという。早稲田と学習院を結びつけたのは昭和23年学習院高等科から早稲田の理工学部に入学した原昌三氏であった。原氏は学習院時代から馬術部の選手であった。原氏は練習の合間殿下をお誘いしてそば屋で殿下の好物のきつねそばを味わっていただいたという秘話を明らかにしている。
なお2代目早龍会会長・大久保信隆氏(準硬式野球部)が東日本大震災発生の6日後の17日大型トラックに救援物資を積んで、自ら運転して荒川区と姉妹都市の岩手県釜石市へ届けている。今なお救援活動を続けているという。70歳に近づいてもこの行動力である。『早竜人』に感心するほかない。堤君は「編集後記」に書く。「文武両道といわれる。優秀なスポーツマンは文章表現も巧みである。記憶力の良さにも感心した。40度を超える酷暑であったこの夏、この記念号づくりに取り組んだ。正直楽しかった」
記録は残すべきものである。何時かは誰かの目に触れる。堤君はよい仕事をした。
|