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「なにごとか おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」。神社にお参りすると、よくこのような感慨にとらわれる。玉砂利を踏んで静寂の中を社殿の前で手を合わせて頭を垂れる。邪心のないすがすがしい気持ちがそうさせるのであろうか。
朝日新聞に「お気に入り神社のランキング」が載っていた(9月28日)。1位、伊勢神宮、2位、出雲大社、3位、日光東照宮、4位、明治神宮、5位、鶴岡八幡宮などとなっている。靖国神社は9位であった。伊勢神宮の1位は当然であろう。10月2日は20年に一度の伝統神事「遷御の儀」が3000人の参拝者が見守る中厳かに行われた。伊勢神宮の今年の参拝者は900万人を突破している(過去最高は2010年の882万人)。遷宮の理由は「常にみずみずしく若返り、その連鎖の中で永遠を目指す」など前向きのメッセージが込められているという(毎日新聞)。明るい兆しが見え始めた「デフレ脱却」をさらに後押しするイベントといえよう。日帰りの伊勢参り“弾丸バス”が毎週、満員のお客を乗せて東京・新宿から出ると聞いた。あらたかな神様のご利益があるからであろう。
日本には昔から鎮守の森、氏神など生活の場に”神様”がいらっしゃる。「トイレに神様がいる」という歌まである。「正直ものの頭に神宿る」という。どうも心と神様はどこかでしっかりと結びついているようである。
毎月、月初めに靖国神社に参拝している。ブログに参拝記を書く。10月2日には次のように記した。「▲靖国神社に参拝する。朝10時ごろにもかかわらず参拝客多し。拝殿では団体客がお祓いを受けていた。
御製 豊受大神神宮参拝(平成6年)
「白石を踏み進みゆく我が前に
光に映えて新宮は立つ」
遺書「可愛い妹へ」 海軍飛行兵曹長 三上 春冶命
昭和19年10月12日 台湾にて戦死 島根県邑智郡口羽村出身 22歳
手紙を鈴鹿海軍航空隊第12分隊教員室より出している。『兄さんも今では可愛い雛鷲の教育で忙しい』とあるところを見ると、この頃は部下の操縦訓練に励んでおられたのであろう。鈴鹿海軍航空隊の主な任務は通信偵察飛行の教育・訓練及び整備された飛行機の試験飛行であった。各地から集められた1期約100名の練習生や士官候補生を受け入れ、約半年間の教育・訓練を受けて各実践航空部隊に送られた。常時約3,000人の実習生や教官、作業員がいたという。三上兵曹長が戦死された昭和19年10月12日は台湾沖海戦が戦われていた真っ最中であった。10月12日、上空に低い雲が垂れ込める中、米海軍第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。日本軍もアメリカ艦隊への攻撃を開始する。航空機90機余りが出撃したが、アメリカ軍の対空射撃を受け54機が未帰還となった。大本営が発表したほど戦果は挙げられなかった。昭和19年10月12日は私が陸軍予科士官学校(埼玉県朝霞)卒業前であった。翌13日陸軍士官学校(神奈川県座間)へ進んだ」
三上兵曹長は22歳、敗戦はわずか10ヶ月後である。当時、私は3歳年下の19歳であった。かろうじて死を免れた。靖国の祭神の憂国の志を受け継ぎ、伝えてゆくのが果たすべき使命と心得ている。今後とも月一回の靖国神社の参拝を続ける。
(柳 路夫)
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