大連2中時代の友人瀬川浩二君が亡くなった(9月13日)。享年88歳。心に残る友人であった。今年の3月9日ハガキをいただいた。それには「これからは人との付き合いをやめる」という趣旨の事が書いてあった。昨今、私も出不精になっているので、なんとか慰めねばいかないと思った。そこで、この日、日本アイスランド協会総会で頂いた渡辺淳一さんの「老い方のレッスン」(新潮社)を送った。総会で作家の渡辺淳一日本アイスランド元会長は「いい加減に生きなさい。あまり生真面目にものを考えるな」と逆説的な言い方で人生論を説いた。瀬川君に多少の参考にもなればと考えたのだが10日ほどあとに本の感想は何も書かずに「署名入りの大事な本だからお返しします」と本がもどされてきた。「何も律儀に考えず、もっといい加減であればよいのに・・」と思った。いつも姿を見せる恒例の5月の会合(26日日曜日)にも欠席した。この日、出席者も6人と淋しかった。
瀬川君は敗戦時、旅順工大(電気科)在学中であった。直ちにソ連軍の技術留用となった。間もなく日本へ帰国という段になって先輩から「家庭の都合で早く日本に帰りたいから代わってくれないか」と懇願された。独身の気軽さから引き受けた(大連地区の引き上げは昭和21年12月から22年3月まで23万5000人が帰国した)。そのおかげでハバロフスクの発電所建設まで手掛ける羽目になった。待遇は将校クラスで抑留された日本軍将兵よりは優遇されたという。日本が独立する前に帰国したが米軍から「ソ連に技術協力した」ということで帰国後の就職がうまくいかなかった。そこで「自分を責める者の懐に飛び込め」と、横浜駐留米軍に話をつけ施設内の電気関係の仕事を始めた。食うために生まれた窮余の一策であった。これが瀬川君の一生の生業となった。今では横浜でも名が通った電気会社と成長した。葬儀(9月18日)には神奈川県知事の花輪もあった。
瀬川君にはお世話になった。平成16年10月23日大連2中創立80周年を記念して最終総会を開いた際、たまたま会長であった私は総会の司会を瀬川君にお願いした。上手な運営をしていただいた。最後にみんなで涙を流しながら「校歌」を合唱したのは忘れられない。彼との思いは尽きない。心からご冥福をお祈りする。
(柳 路夫)
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