敗戦時、陸士59期生は陸軍士官学校に在学中であったのに13柱が靖国神社に祭られている。全国組織が解散大会を開く9月13日有志58人が集まって靖国神社へ昇殿参拝した。祭神はいずれも航空士官学校に進み、満州各地で飛行機の操縦訓練に励んでいた同期生である。内訳は操縦訓練中4人、プロペラ接触事故死1人、ソ連の侵入時、99式高等練習機で脱出途中、山腹に激突、死亡2人、帰国の途次牡丹江駅でソ連機の爆撃で戦死、2人、シベリアに抑留中死亡2人、渡満後発病、入院死亡2人。合計13人である。
この朝、午前9時25分参集殿に集まり、拝殿でお祓いを受けた後、軍歌「航空百日祭」を一番のみ奉納する。みんなで高らかに合唱。この歌は航空の55期の梅岡信明さんが作詞、同期の家弓正矢さんが作曲した。梅岡さんは昭和20年7月1日仏印、カモー南方海上で戦死されている。地上兵の連中も軍歌演習の際よく歌った。
「望めば遥か縹渺の
七洋すべて気と呑みて
悠々寄する雲海の
涯、玲瓏の芙蓉峰
ああ八紘に天翔ける
男児の誇り高きかな」
本殿に進む。
後藤久記君が祭文を朗読する。その祭文は格調高く名文であった。その声は心なしか震えていた。後藤君はソ満国境近くの杏樹飛行場で訓練を受ける。そこではからずも同期生の死に立ち会う。昭和20年6月6日,杏樹飛行場で平勝夫君が搭乗前、車輪止めを外した後、練習機「ユングマン」の回転中のプロペラに触れる事故を起こした。すぐに杏樹陸軍病院に運ばれ、手術を受けた。後藤君ら10人が輸血をした。意識が回復しないまま殉職した。ついで8月11日。ソ連侵攻で杏樹から列車で南下中、午後2時ごろ牡丹江駅でソ連中型爆撃約20機の空襲を受ける。ここで武山利起男君と仏性泰二君がソ連機の銃撃で戦死する。武山君は後藤君とは寝台戦友であった。なぜか杏樹の同期生の南下が遅れ、ソ連に抑留さて者が多く出た。その中で横田清史君と芦沢正名君がシベリアで労役中、タイシェット病院で死亡した。
代表して牧内節男本部副代表幹事と武山君の遺族・令弟・伊藤忠士さんが玉串奉奠をする。13柱に残り少なくなった「人生の余白」にできるだけ美しい花を咲かせることを誓う。
「13柱 いかで忘れん この絆」悠々
(柳 路夫)
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