長谷川潔著『北満州抑留日本人の記録』(波書房・昭和56年3月1日発行)に満州・ハルピンで一人の新聞人が敗戦時、処刑された事実を生々しく描がれている。東北民主連軍(のちの人民解放軍)が国府軍を破ってハルピン市を占拠した当初に悲劇が起きた。中国語新聞『大北日報』の山本文治社長が市内の公園で銃殺処刑された。理由は「中国人民に長年にわたって反動思想を喧伝し続けた元凶に一人」ということであった。『大北日報』(朝刊4n。夕刊n、別の本では『大北新報』)は1922年9月,『盛京時報』社長中島真雄がハルピンで発刊したもので代表が山本文治(別の本では山本文久)であった。34年の歴史のある新聞であった。ハルピン在留同胞の犠牲者第一号であった。国破れて山河残る。昨日の是、今日の非となる。誹謗・中傷を受け断頭台に立つ。不条理な死というほかない。現在の新聞人の覚悟如何に・・・・
岩川隆著「孤島の土となるとも」−BC級戦犯裁判―によると、中共軍あるいは八路軍は各都市に進駐すると、その地区の在留邦人首脳者などを検挙し”民衆裁判“にかけて多数を処刑したという。ハルピン市では昭和21年4月反共主義者としておよそ2百名を逮捕し、30名を処刑し270名は行方不明。昭和21年8月、日本人会の800名を逮捕、30名を処刑とある。
『盛京時報』の社長中島真雄は1859年山口生まれ。三浦梧郎中将の甥。多くの政財官界、軍関係に知己を持っていたといわれる。
中国・福州、北京、満州・栄口、奉天で中国語新聞を発行していた。『盛京時報』(1906年10月18日創刊・本社・奉天)は満州初めての日本人経営の中国語新聞である。2年後の11月にも金子雪斎が中国語新聞『泰東日報』(大連)を出す。これ以後中国語新聞の発刊が続く。当時ロシアも中国語新聞の発行に熱心で日露が激しい競争をして誹謗・中傷しあったという。新聞が中国人の世論誘導に大きな役割を果たしたからである。李相哲著『満州における日本人経営新聞の歴史』(凱風社刊)によると、1937年末現在、中国語新は『盛京時報』『泰東日報』など9社を数えている。日本語新聞は55紙ないし77紙発行されている。
なお処刑された山本文治は長谷川潔の著書によれば「満州に野球を普及させた最初の人であり都市野球団を編成して黒獅子旗を満州に持ち帰った在満同胞中異色の人物である」とある。確かに1927年に始まった『都市対抗野球』は第一回大連満鉄クラブ、第二回大連実業団クラブ,第三回大連満鉄クラブがそれぞれ優勝、「黒獅子旗」を満州の地に持ち帰っている。
(柳 路夫)
|