花ある風景(503)
並木 徹
岩見隆夫著「敗戦 満州追想」
政治評論家・岩見隆夫君が「敗戦 追想」(原書房・7月10日第T刷刊)を出した。彼が出すのだから単なる”想い出の記”ではあるまい。だが、彼が今日あるのは意外や子供の時の”商い“にあるとは興味ある事実であった。大連生まれの彼自身「敗戦を迎えてから、祖国の日本に引揚げるまでの濃密な約1年半は、私の人生の原点だった」といっている。私も少年期をハルピン・大連と過ごしているのでこの思いはよく理解できる。
敗戦時、大連で一家7人の生活を支えたのは中学1年(大連3中)の兄と小学校4年(嶺前小学校)の岩見君であった。タバコは1箱30円から50円。商売のカギは「客が喜ぶ品をいかにして取りそろえるか」にある。鼻のきく兄が闇マーケットから香の良いかタバコを仕が入れてきた。時には売り上げが3千円を超える。岩見君の役割は専ら客を掴まえることだったという。父親は日本に引揚げた後も岩見君に「お前は商売人になれ」が口癖であったそうだ。
当時、大連の子供から大人まで生きるのに精いっぱいであった。南満工専の学生だった筆者の同級生・辻武治君(故人)が仲間の雑誌「となかい」(大連2中17回生の会誌)に書く。うどん店、ぜんざい店、甘酒店などが多く、落花生やイモピンズ、ズルチンの小売りも繁盛していた。「立ち売り」で最も人気があったのは女性の着物であった。買い手はソ連の軍人や満人のお金持ち。派手な柄ほど値が高かった。主婦たちが即席のロシア語を操って見事な駆け引きを見せた、とある。大連2中20回生の菊池忠昭君の体験によると、弟2人と三人で朝は午前2時に起き満人の豆腐店に並び仕入れをして早朝の街を売り歩き、日中は野菜売り又,雑木を切り薪売り、その時の生活は一日2食の日がつづいたという(大連2中光丘会報『晨光』・第38号)私は敗戦時、日本にいた。生まれは大阪だが、性格は大陸的である。おおらかで、こせこせしない。我慢強く負けず嫌いである。確かにハルピン、大連は歴史の激流の中に沈んだ。隣人たちのかずかずの“ゆえなき死”があった。虐待、惨殺もあった。その日本人の悪行に目をつぶるつもりはない。育てられた風土と自分を語る自由まで否定されたわけではないと思う。その意味で岩見君の本を懐かしくも読み、日本の将来のことも考えた。彼は最後にいう。「私たちの満州体験から得た貴重な教訓は、いかなる形であろうとも二度と戦争をしてならないこと、しかし、もし戦乱に巻き込まれたら絶対に負けてはならないこと、の二つに尽きる」。同感である。それにしても日本は平和になれすぎ、あまりにも国防意識がなさすぎる。
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