2013年(平成25年)9月10日号

No.585

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安全地帯(405)

相模 太郎


伊豆の国市韮山界隈


 先日、伊豆の国市韮山の歴史探訪をすることが出来た。最近は横目で通過ばかり、今回は、二日間にわたり約20か所を念入りに実見出来た。20年ぶりぐらいだろうか。吾妻鏡を学んでいたころはよく実地踏査に訪れていたのだが、齢と共につい温泉に足が向いて怠けてしまった。

 お目当ての神社・仏閣・遺跡等は、手入れが行き届き、案内標識もほとんど完備し、必ず説明板がついていて、昔とくらべ、格段と良くなった。残念ながら、筆者は神経痛持ちで、車を利用し移動するのは心苦しい。本來なら周辺の景色を見ながら、事前に勉強しておき、往時の人々の感懐にふけりつつ、歩いて次ぎの目的地へ。これが本当の探訪の醍醐味ではあるが、齢も期限切れ、残念だ。ただ周回のペースは、車は楽で速い。そこで見、出会ったお話をご案内かたがた2,3記してみよう。

 まず、南端にある真珠院、ここは頼朝かつての愛人、伊東佑親の娘八重姫が入水の地。愛児を父に殺され、頼朝のいる蛭ガ小島まで来たが、はや、政子と結ばれていたのを見、悲嘆のあまり命を絶った。そこへ供養の寺院を建てたのが真珠院だ。実はその小さな山門の右手にある石塔に刻まれている文字が面白い。「大強精進勇猛佛」寛永6年(1629)(写真)。見ていて元気が出るようだ。

 次は「北条寺」。政子の弟で第2代執権北条義時夫妻の墓がある。境内に生まれて初めて見た面白い花をつけた木(写真)が2株ある。ちょうど、ご住職がいらっしゃり、声をかけて下さった。アメリカ産の木で「珍宝樹(ちんぽうじゅ)」というのだそうだ。形は試験管洗いのブラシを真っ赤にしたようなものでこんもり付いている。一枝折って、させば着きますよとご親切にくださった。帰宅して鉢にさしたが、現在健在。2,3年後には咲くかもしれない。楽しみだ。

 頼朝の配流された蛭ガ小島(写真)には、頼朝、政子の銅像が富士山を眺めている傍らに茶店が出来ていた。ちょうど昼時で食事をすることにし、メニューでおにぎり定食を頼んだ。時代劇ならぬ外の軒先で食べることにした。出て来たお膳に握りたての、のりおにぎり2個(おかかと梅干)、熱い味噌汁、漬物、佃煮少々だ。五月晴れの富士を眺めながら元気で800年まえの頼朝を懐想、そよ風に吹かれ元気で探訪出来る幸せをかみしめながら、ほほばる。また、それが最高に旨い。こんなおにぎりは初めてだ。米は周囲一面の水田のものだろう。握り方も上手、ご来訪の節は絶対おすすめだ。金300円也。長生きして良かった。

 東数百mには伊勢新九郎(北条早雲)の居城韮山城跡があり、掘割が満々と水をたたえていて、接してある甲子園野球によく出場の韮山高校の生徒が写生をしていた。水堀、空堀まである城跡をさながら校庭にして使っている。

 その東には、幕末の名代官江川太郎左衛門の代官屋敷(8月10日号参照)があり、更に東200mほどには、武家政権創立の嚆矢となった源頼朝の挙兵で襲撃された山木(平)兼隆の屋敷跡がある。いち民家の庭に小さな標石があるだけだが、鎌倉時代の幕開け、ここが歴史の転換点になったことは誠に感慨深い。家来どもが三島神社の祭礼に繰り出した隙をねらわれたらしい。ときに頼朝34才、雌伏20年間流人生活に耐え、遂に決起した。治承4年(1180)8月17日深更であった。情報収集、練りに練った作戦だったが、衆寡敵せず、このあと東国にいた平家方の豪族の追討を受け真鶴から舟で房州へ、その後東京湾をまわって鎌倉へと舞台は回る。そのお話は後日。乞ご期待。

 少し離れるが修善寺近く、伊豆急「牧の郷駅」手前の沿線に加藤次景廉(かげかど)一族の墓(写真)が、たんぼと線路の間にひっそりと建っている。数基の五輪の塔が建っている。景廉は頼朝の上記の挙兵より活躍し頼朝に重用された武士だが、子孫にテレビで有名な江戸町奉行の桜吹雪で知られた遠山の金さんこと、遠山金四郎景元がいると説明板にある。「景」が代々の通字らしい。

真珠院の元気な石塔 蛭ガ小島頼朝・政子の銅像
北条寺の珍宝樹 加藤次景廉の墓

(筆者撮影)