2013年(平成25年)6月10日号

No.576

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安全地帯(396)

湘南 次郎


かつての常識は今の非常識

 「火筒(ほづつ)の響(ひびき)遠ざかる、あとには虫も声たてず・・・・」有名な軍歌「婦人従軍歌」である。明治27年日清戦争で旧日本赤十字の看護婦さんが、女性ながら戦地に出発するときの健気(けなげ)さ、凛々しさを歌ったものだ。また、愛児に別れの乳を飲ませている絵もあった。靖国神社に祀られた方もいる。この大和なでしここそ従軍看護婦と呼ぶ。いやしくも、従軍慰安婦とは、無礼千万、やたらに軽々しく「従軍」の文字をつけて貰っては困る。

 そもそも、慰安婦とは低俗な悪い言葉であるが、当時はこの人々を商取引の材料にした女衒(ぜげん)という、「当時の日本人」にはとんでもない商人がいた。年季奉公などと甘い言葉で、貧しい家の子女がいると札束を親に渡し、今では考えられない、その子を連れて行き売春をさせる。または、そのルートに売り込む。もっとも、モトネいらず、カネになるならと進んでその道に入った女性もいたらしい。今は目的も多少変わり、そのスジの連中が時々捕まって新聞種になるが、慰安所?も散らばり深く静かに潜航しているようだ。戦後、日本人の連中もツアーを組み、勇んで海外へ例の買い物に出かけたことがあったようだが、大きなお世話だが、その国のそのスジは古来からどうなっていたのか?

 話をもどそう。当時は堂々と、女衒という商人がその一群を連れて、移動する軍の部隊に着いて行っては民家やバラックに店をかまえ、移動すればまた付いて行く。女性は、利用する兵士から料金をとり(タダではない)、女衒は女性からピンはねをする。わたしは、青年時代だったが、幸か、不幸か売春禁止法が出来たので恩恵?に浴さず、先輩からのお話であるが、人の弱みにつけこみだいぶ戦中、戦後、関わって、もうけた人がいたらしい。今、考えるような悲惨な状況の「拉致」、「強制連行」、「なんとか奴隷」とは大分違うようで、それは、女衒に聞いてみたら?むかし、外国映画で「モロッコ」「外人部隊」など似たような映画もあったような気がするが。戦中、青年期を過ごされた方々は、ま、こんなことは余り大っぴらにすることでもないし、適当にしたらと思っていらっしゃるのではないか?

 余談になるが、戦地ではないし、ちょっと違うが、筆者も若いころ、軍の学校の学生で京都の歩兵連隊へ見習(みならい)に行っていたときのこと。民間では物資がなくなって不自由していたので、兵隊さんが言うには、カネより支給される石鹸一個か、ライオン歯磨き粉一袋でOKだったそうだ。筆者が外出できるので、それに付いて外出して、某有名なの遊郭(誤解のないよう今と違います)へ行きたいと言って、しきりに誘う。歯磨き粉は女性がお白いの粉の代わりにするのだそうだ。当然ことわったが、それが当時の風潮だった。また内地、戦地にかかわらず兵士の外出に「突撃一番」(コンドームの秘匿名)を持たせ、病気には特に注意したそうだ。いま、慰安婦だったと言っている外国人(もとは日本人)や、その国の主張は別の魂胆があるかも知れず、十分ご賢察のうえご注意、ご注意。ご参考に、現在の日本人の訴えは皆無だ。変だと思いませんか?なお、現在の自衛隊にはダニのごとき女衒は付いていないし、綱紀厳正であることを付言する。

 かつての戦闘惨烈の戦争の実態をご存じ無い若い政府要人の談話は、折角の平和国家を混乱させ、全く余計なことをほじくり出し、自分は正義の味方、月光仮面と自負したのか。その上、軍が直接関与とは。当時の作戦要務令の綱領第一冒頭に「軍ノ主トスル所ハ戦闘ナリ。故ニ百事皆戦闘ヲ以テ基準トスベシ・・・・」とあり、常識で考えてもおかしい。昔、ある国の兵士が「から傘」を肩から掛けていたのと同じように、いくさに忙しい日本軍が慰安婦を連れて歩くような発想も余裕もある訳が無い。このところ、どこぞの党首たちも論争に参入、戦争を知らない人たちが筆者の頭上を通り越して例の問題で丁丁発止、言い訳や論戦も拡大し、辞職やけんか分かれも始まるというとんでもない所に発展した。まあまあ、ムキになっても遠い昔の話だよ。

 ただ、肝心の談話の方(かた)はダンマリご存命のはず、国益を考え、国家、旧日本軍の名誉のためにもキッチリと責任をとっていただきたい。騒動のもとはあなたなのだから。