2013年(平成25年)4月20日号

No.571

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追悼録(487)

鎌倉時代の武士の死にざま

 

 小生はや87才、そろそろお迎えの適齢期になり、墓参のたびに、いかにしたら、楽に、そしてまわりに迷惑を掛けず、サッパリこの別荘に入れるか、わが人生最終の大仕事が待っていると覚悟する。そこで、鎌倉時代における壮絶ではあるが、見事な態度で死に向かった数人の武将を「平家物語」や鎌倉時代の公的史書「吾妻鏡」等によってご紹介する。

 まず、源平合戦の最後の決戦になった壇ノ浦の合戦における平家の武将平知盛(とももり)の死の様子を見よう。知盛は、清盛の正室時子の第二子として昇進も早く、30才で権中納言従二位、兄宗盛が対朝廷、諸寺院の勢力に対抗また妥協の政治的工作の責任があるので、平家一門を軍事面で統帥する中枢にあった。一の谷,屋島、と源義経の猛攻に利あらず、九州の大宰府へ退く作戦を建てていたが、時すでに遅く源 範頼に侵攻され、文治元年(1185)3月24日遂に壇ノ浦に追い詰められたのであった。つぎつぎ水軍戦でも義経軍に敗れた平家一門の軍船のなか、鬼神のごとく奮戦をしていた知盛は安徳天皇御座船に小船で乗り付け、見苦しい物を海に捨てさせて、自らも船中を掃いたり拭いたりして清掃した。女官たちには「もうすぐ珍しい東男(あづまおとこ)をご覧になれることでしょう」と冗談を。今はこれまでと、清盛の妻、二位時子に抱かれ「波の下にも都のさぶろうぞ」となぐさめられながら、安徳帝御入水。そして、知盛は「見るべき程のことは見つ。今は何をか期すべし」と鎧二領をかさね着し海底深く沈んで行った。実に鬼神をも哭かす壮絶な最期を遂げた。齢34才であった。現在も能の「船弁慶」や碇綱を巻きつけ入水する浄瑠璃「義経千本桜」などの名場面で著名である。 

 ご紹介した平家の武将は戦乱にたおれたのであるが、次は平時に天寿を全うした武士としての死が後世に残る。「吾妻鏡」によれば、まず、元久2年(1205)11月15日の条にある千葉一族の相馬 師常(もろつね)の死である。彼は源 頼朝挙兵の折り三百余騎を引き連れ参戦して功績のあった千葉常胤の次男として常に頼朝軍に加わって、源平、奥州合戦に出陣、相馬氏の祖とし、頼朝の重臣であった。死に望み、「端坐合掌せしめ、さらに動揺せず、決定往生(けっていおうじょう)あえてその疑いなし。これ念仏の行者なり。」つまり、脚を組んで座らせ、念仏して息を引き取ったと。当時とすれば長命の67才であった。多くの宗徒が集まって拝したと言われる。墓は鎌倉駅北東300m程にある小山のやぐら(洞窟)に祀られている。あの付近は千葉一族の住まいがあったところといわれる。

 次に、国難の元寇を乗り切った北条時宗の父鎌倉幕府五代執権北条時頼の死を見よう。母は徒然草184段に出て来る障子の切り張りをして若い者に見せる倹約の逸話を持つ安達景盛の娘、松下禅尼である。父は北条時氏、六波羅探題が長く、28才で早世した。時頼の政治は質素、倹約を基本とする厳格なものであったが,民百姓に撫民政策、一方御家人を擁護し数々の善政を施した。世に言う廻国伝説が生まれ、謡曲「鉢ノ木」は有名なお話だが、実際には権謀術策の世に明け暮れそんな暇はなかったろう。そして、死にあたりその状況を「吾妻鏡」は劇的な死にざまで鮮明に記述している。長いが原文でご紹介する。

 戌の刻(午後8時ごろ)入道正五位下行相模守平朝臣法名道崇 御年三十七最明寺の北亭において卒去す。ご臨終の儀、衣、袈裟を着し、縄床に上りて座禅せしめたまふ。いささかも動揺の気なし。頌(じゅ)に云はく、
*業鏡高懸三十七年   一槌打砕大道坦然
(ごうきょうたかくかかぐ37ねんいっついにださいしてたいどうたんぜんたり)    弘長三年十一月二十二日 道崇珍重
と云々。平生の間、武略をもって君を輔け、仁義を施して民を撫す。しかる間、天意に達し人望に恊(かな)う。終焉の剋(とき)、叉手(しゃしゅ)して印を結び、口に頌(じゅ)を唱えて、現身成仏の瑞相を現す。もとより権化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賎群を成してこれを拝し奉る。
*この世での行いを写す鏡で邪悪を正した37年、今は一撃で打ち砕き、前途が坦々と開けている。  道崇は法名。
最明寺北亭は現在のあじさい寺で有名な北鎌倉明月院あたりである。

救急車、人工呼吸・延命治療のご時世に、高ご年配の読者諸氏の、ご感想、お感慨や死生観いかに。

(参考文献)新人物往来社「全訳吾妻鏡」貴志正造、小学館「平家物語」
 新人物往来社「鎌倉室町人名辞典」、塙書房「平家の群像」安田元久
 新人物往来社「鎌倉北条一族」奥冨敬之 

 

下関赤間神宮平家一門墓所     相馬師常墓所       あじさいの明月院    北条時頼墓所(明月院)


(筆者撮影)

(相模 太郎)