2013年(平成25年)4月10日号

No.570

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追悼録(486)

杉山寧の回顧展を見る

 

 杉山寧画伯の名前は月刊「文芸春秋」の表紙で知った。調べてみると昭和31年4月から30年間表紙の絵を描き続けていたという(表紙絵は総計369点)。今回初めてその人の原画に接した。「杉山寧展」(3月6日から3月25日・日本橋高島屋)を見て体から喜びがあふれてきた。美に対する感動である。入り口近くの「南天」(昭和4年)から「鯉」(昭和45年)まで行きつ戻りつ時間をかけて”杉山画伯の世界“を逍遥した。「南天」。東京美術学校日本画科入学した翌年の作品。その2年後の昭和6年第12回帝国美術展に初めて出した作品が入選。「精妙な素描力により悠揚たる風格がある」と称賛される。この「南天」にもいえる。4本の木に赤い実を付ける南天は写真よりも迫真性がある。「海兵」(昭和7年).水兵さんが軍艦の上で手旗信号をしている図である。帽子に「那智」の文字が見える。この年の1月、巡洋艦「那智」は第一次上海事変に警備出動する。艦長は田畑啓義大佐(海兵35期・のちに少将).水兵さんの顔は赤銅色に輝き、口は真一文字に結び、目は大きく見開く。「那智」は12年後の昭和19年11月5日、マニラ湾で海没する。「艦上に手旗振る兵天高し」(紫微).「海女」(昭和9年)第15回帝展で特選をとる。小舟の上に二人の海女。一人は上半身裸体。長い黒髪を肩まで垂らす。もう一人は右手に盥を持ち白い作業委を着て立つ。志摩の波切村付近へ旅行に行った際に着想を得たという。「海女二人赤銅色に風光る」(紫微)「舟上のまばゆき海女の二人かな」(同)

 「黒い海」(昭和10年)。砂浜の向こう側に見える黒い海が印象的である。なぜ海が青でなく黒なのか。千葉県鴨川市波太の海がモティーフという。カタログには当時公開された映画「アラン」の透明な深さを感じさせる海の黒さに影響されたとある。映画「アラン」はロバート・フラハティ監督の作品。詩的な表現に満ち、厳しい自然に立ち向かう人間を称えた傑作だといわれる。杉山には時代の足音を黒と感じたのだろうか。この年の作品に「少女」「麦」「漁村 一」「漁村 二」などがある。

 杉山は昭和20年8月、終戦を家族とともに疎開先の信州の戸倉温泉で迎える。2月に海軍に召集され横須賀海兵団に出頭するが即日帰郷を命じられている。12月には東京に戻る。時に37歳。

 「悠」(昭和38年)。ピラミッドを背景にスフィンクスを横向きに大画面で描く。人は何を感ずるであろうか。力。永遠・・・杉山が「悠」と題したのは彼の感性の鋭さを示す。「春愁や鼻の欠けたるスフィンクス」(紫微)。念願のエジプト旅行は杉山に「造形には悠久の美と芸術の永遠性があることを確認させた」という。「羊」(昭和39年・昭和41年)の作品を生む。「生」(昭和46年)。白と栗毛の二頭の馬の前に裸婦が立つ。馬は馬事公苑で、裸婦はアトリエでそれぞれ写生したもの。「昶」(ちょう・昭和47年)は栗毛の馬に裸婦がまたがっている。その後ろに白い馬が控えている。裸婦をできる限り自然な形で表現したかったという。構図がユニークである。『春の「生」裸婦と二頭の馬睦む』(紫微)「峉」(かく・平成元年)。富士さんの絵である。雲が湧き上がるように描かれている。自分のイメージに近い姿を求めて描いているうちに富士山を一周してしまったという。歌川広重の「名所江戸百景」の「浅草田圃酉の町詣」にも「吾妻橋・金竜山遠望」にも富士が描かれている。造形よりも物語性を求めたからいとも簡単に円錐形の富士をあしらう。

 今回の展覧会のテーマは「悠久なる刻を求めて」。それにふさわしく最後に「妝」(しょう・昭和56年)を取り上げる。白孔雀である。真っ白な衣装をまとう。
 典雅である。それはまさしく杉山寧の化身である。それから5年後の平成5年10月84歳で亡くなる。今年は没後20年だそうだ。


(柳 路夫)