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安全地帯(390)
−湘南 次郎−
地震、津波に火事、オヤジ
かつて、筆者宅の横に建っていた電柱の変圧器に落雷があり、テレビなどの電気製品を破壊されたことがあったので雷もいやだが、3.11の惨状を見るにつけ、大地震の公算が高い相模湾に面しているため、津浪のほうがまだこわい。標高35mの拙宅だが先日、本紙主幹の牧 念人氏が来訪された際、即座に津浪が危ないとご忠告あり。たしかに油断は禁物だ。とにかく、年代に異論があるが、 明応4年(1495)、7年(1498)ごろの大津波では、海岸から約800mも離れて、海抜15mの有名な長谷の鎌倉大仏の殿舎も津波により流されてしまっている。現在はご存じのとおり露座で周囲に礎石だけが残り、往時の様子を語るのみだ。
最近、当地鎌倉と、湯治のため時々訪れる伊豆方面の津波について実地に調べる機会があった。まず鎌倉は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、マグニチュード7.9、震源地が相模湾沖だったため震度8以上の烈震が第1回、40分後に第2回があり、ほとんどの家屋が倒壊し、多くの圧死者を出し、海水は沖へと大きく引上がっていった。その第2震後に大津波が2回にわたり押し寄せた。特に2回目は8~9mの大津波で、すべてを流していったのだ。被害は、鎌倉全戸数4,183戸のうち、全壊1,455、半壊1,549、埋没8、流失113、焼失443戸、死者412人であった。
鎌倉には、当時の被害者の供養塔が市内数か所の寺々に残っている。江ノ島に近い漁師町の腰越の淨泉寺にある関東大震災供養塔(写真参照)には、裏にこの地区の約80名の犠牲者の名が刻んである。女性が圧倒的に多い。男子は年寄りか子どもであろう。成人男子は漁に出ていたので助かったと思われるが、帰港して惨状を見たご心中をお察しする。これは肉親や家屋を失った悲しみを込め、冥福を祈る鎮魂の碑であろう。当今、鎌倉市は住民に、地震や津波の被害を想定してハザードマップを作り、対策を建ててはいるが、來訪中の多くの観光客も考えたらなかなか大変なことだろう。
一方、伊豆半島東側、相模湾に面した方面も江戸時代よりたびたび激震に襲われ、諸所にその傷あとが残り、発掘もされている。実見したところ、伊東市名刹の佛現寺には元禄地震とともに関東大震災の供養塔がある。また、伊東市宇佐美の行蓮寺には、この地区の寛永10年(1633)3月の小田原地震津波のこと、380人余りが溺死した元禄16年(1703)の11月23日深夜の大地震で発生した大津波の被害などを刻んだ供養塔がある。また、関東大震災の津波浸水の高さを示す標石が階段横に置かれている。(写真参照) 高さはすぐ前の海より約10mはある。両脇の2階建の家屋より高い。(先般の3.11三陸の大津波は高さ20~40mで、いかにすさまじかったか)
ここで、23.6.20付の産経新聞連載の「温故地震」によれば、「宇佐美地区では、寛永の地震の際、急に海がはるか引き、川や井戸水が無くなり、海水は600mも引き、皆が珍しがって残された魚を採りに行ったところに津波が押し寄せ、大被害を受けた。しかし、元禄の津波は不幸にも深夜に加え、地震直後に襲ってきて前回の教訓は生かせず、被害が大きくなった。つまり、「寛永は引きで始まり、元禄は押し(上昇)で始まったのだ。」という津浪であったと書いてある。
大正12年関東大震災では、伊東地方も強震後7〜8分たって第一波の津波が押し寄せ、6回にわたり猛威を振るった。伊東も他の地区では多数の死傷者、行方不明者の津浪被害を出したが、特筆するのは、宇佐美地区だけが、家屋全、半壊100戸、流失111戸を出しながら、先祖の教訓を守り、周到な避難訓練のおかげで1人の死者、行方不明者もなく、全員無事、実に見事な避難であった。
山は裂け 海はあせなん世なりとも 君にふたごころ わがあらめやも (源 実朝)
(参考文献)鎌倉市役所編「鎌倉回顧」、同「鎌倉災害史」、伊東市役所編「図説伊東の歴史」、「産経新聞」
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鎌倉腰越淨泉寺関東大震災供養塔 |
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伊東市佛現寺寛永・元禄地震供養塔 |
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痕跡のある伊東市宇佐美行蓮寺 |
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行蓮寺の階段上から3段目左の標石 |
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