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「死の淵を見た男」
牧念人 悠々
「死の淵を見た男」−吉田昌郎と福島第一原発の500日ー(PHP)の著者・門田隆将さんの講演を聞いた(12日・同台経済懇話会主催)。初めに大正世代の話をされる。敗戦時、大正元年生まれは33歳、大正15年生まれは19歳。1348万人のうち200万の人が戦病死している。こんな不幸な世代はない。恥を知り黙々と働き、何事にも一所懸命であった。その人たちを「他人のために生きた世代」と、とらえる。この話を聞いて先輩・後藤四郎さんから教わった「大正生まれ」の歌(小林朗・作詞・作曲)を思い出した。「大正生まれの青春は/すべて戦争のただなかで/戦い毎の尖兵は/みな大正の俺たちだ/終戦迎えたその時は/西に東に駆けまわり/苦しかったぞ/なあお前 」
門田さんは現代に日本人の傾向を「自分のために生きる世代」とみる。
東電の事故の話にうつる。東電の吉田昌郎所長ら現場の決死の働きがなかったら、その時、原子炉が爆発して放射能汚染で日本は3分割されていただろうと話す。その被害の大きさは「チェルノブイリ×10」であったであろうという。その最悪の事態は回避された。全電源が喪失したとき吉田所長は原子炉へ海水を注入することを考え、事故が起きたその日のうちに消防車の手配をしている。この発想は現場指揮官でなければできないことである。これはのちに官邸から「海水中止」の指示が来た際、吉田所長が聞いたふりをして部下に海水注入を続行させたことにつながる。吉田所長の発案による冷却活動に応じたのは陸上自衛隊第6師団隷下の第六特科連隊であった。本部中隊の消防班に所属する渡辺秀勝・陸曹長(46)ら郡山駐屯地消防隊の7名と福島駐屯地の消防隊5名を加えた12名が電源車・消防車が3月12日午前2時半に現場に出動した。この2台の消防車が原子炉冷却のために決定的な役割を果たす。このことはあまり知られていない。また中央制御室の責任者ら技術者たちは原子炉へ「水のライン」を放射線量がたまりゆく中で構築している。この「水のライン」が大いに役立った。放射能汚染が高まりゆく中央制御室、原子炉建屋への突入などでさまざまな人間ドラマが展開される。そこに「他人のために生きる男」たちの姿が描き出されている。生死の瀬戸際で「言い残したことがある」といった男は「奥さんにありがとう」という言葉を伝えたかったという。全編涙なくしては読めない。世を上げて東電、バッシングの中、門田さんの本はすでに10万部の売り上げを記録しているのは理由がないことではない。なお2012年1月10日号の「茶説」「原発事故の拡大は戦いの原則を忘れたツケだ」を参照されたし。
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