2013年(平成25年)3月20日号

No.568

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追悼録(484)

日本最大の獣害事件

 

 先日、伊豆伊東の里山で100sはあろうイノシシに遭った。幸い車なので、相手は逃げてくれて助かった。また、昨年は知床五湖を逍遥中、ヒグマが出たとの警報で、急きょ通行禁止になってしまい、一湖を見て引き返す破目に。それにつけて、旧聞に属するが、大正4年(1915)12月、雪に覆われた北海道北部の苫前郡の開拓部落に発生した冬眠に失敗した400s近いヒグマが食糧に窮し、住民襲撃事件を起こした現場跡を訪ねたのを思い出した。

 かつて、愛車を駆って夫婦交代で運転して、毎年のように北海道を周遊した。ある年、北部の日本海沿岸、羽幌町に一泊し、翌日、海岸線を南へ下る予定で地図を広げたところ、隣の苫前町より内陸へ30qほど入った地点に「三渓別(さんけいべつ)羆(ひぐま)事件跡地」とあったのを発見、持ち前の好奇心で、宿を早出して同町郷土資料館で件(くだん)の惨状をミニチュアや古い映画のビデオを見せてもらい改めて認識を新たにした。

 比較的起伏は少ないが、人家のない淋しい沢伝いの淋しい細い林道をさかのぼる。人、車に会うこともなくやっと着いたところに転々と僅かな小屋があって人が住んでいるのか、現在は「三渓」と地図にある。現地はまた、その最奥に入ったところにあった。原生林に近いヒグマの出没しそうなところである。

 当時の記録によれば北海道天塩国苫前郡苫前村の三毛別御料農地開拓部落六線沢に東北地方から入植した15戸が、そこに部落をつくり山林を開拓し農地にしたのであった。今は、そのうちの一戸がいろり、むしろ敷きの居間が一体となった15uほどの小屋に復元され、うしろには小屋を蔽いかぶすようにして立ち上がった等身大で口を開けた大きなヒグマの模型があり、鬼気迫る森閑とした山中、思わず息をのむ。厳冬の道北、このような小屋(住居)でよく過ごせたものと当時の開拓民の壮絶な苦労が偲ばれる。壁、屋根は茅、出入り口はむしろだ。(写真参照)

 あとで偶然、神田の古書店で吉村 昭氏の「羆嵐(くまあらし)」新潮文庫と言う著書を入手し、氏の綿密な調査に触れ、事件の詳細を知った。当地の開拓民は電気、新聞もなく、夏は大量発生する毒を持つ蚊やアブ、イナゴになやまされ、冬は厳寒豪雪と戦い、食糧、農工具にも不自由しながら、夫婦ともども必死の思いで開拓したのであろう。

 事件の始まりは、12月9日、愛児の少年(9才)が咽喉をえぐり取られ殺されているのを仕事に出ていた夫が遅い午食をとりに来て発見した。急報により皆で妻が引きずって行かれた跡をたどって行き、沢で仲間によって発見された。誰もヒグマに襲われたのを直感した。すぐさま30kmもある下流の役場まで連絡するにも積雪と暗くなる難路でヒグマの出る危険、方法が無く翌朝元気のある男が連絡に走る。以後、村民に召集がかかり、約50名が出動し、銃五丁(不発のものもあり)、槍、鎌などを持ちヒグマ討伐に向かったが、時すでに遅く、肉食獣のすさまじさは、次から次へと2日間で婦女幼児6名が犠牲になり3名の重傷者を始め多数の負傷者を出す。なかには臨月で胎児まで食い殺された妊婦もいて、無残にもムシャムシャ音をたて食べているのを聞いた人もいたとのことだ。役場は警察を出しても射とめられず、遂に軍隊の出動まで考えたが、なにしろ積雪の僻地、連絡に2日、出動には旭川の歩兵第28連隊から4日はかかる。しかし、幸いにも、よそから呼んだ偏屈な一匹狼のベテラン猟師によってようやく仕留められたのであった。その様子は吉村氏の「羆嵐」に詳しい。

 むごいのは、最後に解体した胃袋から人肉は勿論のこと、大量の女性の髪の毛、櫛、脚絆などが出て来たとのことだ。また、ヒグマの胆(い)は殺した猟師が得る権利がある。これは漢方薬で金(きん)と目方が同じ値段だそうだ。猟師に払った礼金は当時の大金50圓だった。また、すさまじいのは「しきたり」として、辟易(へきえき)しながらも、その肉を鍋にして死者供養のため、みなで食したのだそうだ。ちなみに、頭の頂から足の先まで2.7m、前足幅20p、後足長さ30p、体重383s、毛皮にして長さ3.6m、幅1.7mもあったと記録に残る。しかし、今は、同町資料館には別のヒグマのはく製はあったが、当の毛皮も残っていなかった。

 ヒグマは冬眠するが、大きいので穴に入れなかったとか、すみかを開拓されたとか言われ、特に冬でも現われるのは食糧に窮し、凶暴になるらしい。昭和に入り、500sもある幻のヒグマ(北海太郎と名づく)と称されるのが、追跡8年遂に射止めたのは、奇しくも三毛別出身の猟師で大正4年の事件当時7才の方だそうだ。犠牲者ももって瞑すべし。北海道の山野にはまだまだ自然が残り、散策には十分の注意が必要だ。

ヒグマ襲撃住居の復元 供養碑 右後方は復元の光景


(湘南 次郎)