2013年(平成25年)3月20日号

No.568

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安全地帯(388)

信濃 太郎


終戦の詔勅の謎がわかった

 私の手元にある「終戦の詔勅」の原文のコピーと新聞発表の「終戦の詔勅」の文章の一部に相違点があるのを2回にわたり問題にして論じてきた。元内閣文庫長・石渡隆之さんの「終戦の詔書成立過程」の論文(『北の丸』第28号平成8年3月刊行)を見てその相違の経過が分かった。石渡さんによれば、詔書には何回かにわたって書き改められた数点の草案があり、それぞれの草案には草案作成に関与した当事者の苦心の跡がにじみ出ているという。石渡さんは「終戦の詔書成立の過程」表を作成し詔書が出来上がるまでにその内容にどのような変遷があったのかを調べている。私が「ナゾ」として問題にした「頻リニ無辜ヲ殺傷シ」の部分(原文16行目)がどのような変遷をしたのかたどってみる。

「ニ人道ヲ無視シテ新ニ残虐ナル兵器ヲ使用シ  」
「 人道ヲ無視シテ新ニ残虐ナル兵器ヲ使用シ目的ノ為ニ手段ヲ選ハス」
「        新ニ残虐ナル兵器ヲ使用シ   惨害ノ及フ所真ニ測ル」
「        新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シ   惨害ノ及フ所真ニ測ル」
「  新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ル」

 この経過を見ると、初めにあった「人道を無視して」の言葉が削除され、最後に「頻ニ無辜ヲ殺傷シ」が付け加えられたことがわかる。私の原文のコピーで16人の閣僚の署名があるのにこの部分が欠落している。「終戦の詔勅」の布告原文には行間に括弧して「・・・テ頻ニ無辜ヲ殺傷シ・・・」が挿入されている。記録によると、詔書文案決定が14日午後9時30分。午後11時25分から皇居政務室で録音が開始され午後11時50分録音終了となっている。
布告原文の日付が昭和20年8月14日となっている。玉音放送が一日遅れたことになる。これは詔書の内容決定に時間がかかり、録音盤奪を目指す決起将校の動きがあったためである。詔書原本は国立公文書館に厳重の保管されている。これは特定の機会以外見ることができないという。

 

「終戦の詔勅」

朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ

抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シ(テ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ) 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ 尚 交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ


朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム

宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ