友人の中山毅彦君とは毎月定期的に開かれる会合の後、コーヒーをよく飲む。いつも5,6人の友人たちも一緒である。話は天下国家のことから下世話な話まで及ぶ。中山君は東京幼年学校出身だが家庭の事情で大学に進学せずに四国電力の副社長までなった男である。苦労しただけに話はいつ聞いても面白い。つい最近、日商岩井の副社長であった海部八郎の話が出た。中山君が四国電力の東京支店長時代海部とよく長野でゴルフをしたという。あるとき乗車して間もなく「あ、『フォーカス』(写真週刊誌)を買ってくるのを忘れた」といった。長野駅に着いた途端海部の姿が見えなくなった。間もなく戻ってきたら「ほら『フォーカス』だ」と中山君に手渡したという。この気配りが絶妙だと中山君は感心する。この話は海部が部下に「商売なんて簡単やで。お客さんが喜ぶことだけすればええんやから」と言っていたことと相通じる。思い出した。週刊誌『サンデー毎日』で一緒に仕事をした大熊房太郎君(医学博士)が海部と府立7中の同級生であった。私が社会部長の時「面白い男だよ。一遍会わないか」と言っていたがなぜか、機会を得なかった。当時、日商岩井の航空機部長が同期生であった。それとなく雑談して別れた。田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件を取材追求した責任者であったのだから田中角栄とともに日本の戦後史を彩る海部八郎にはあっておくべきであったかもしれない。彼がダグラス・グラマン事件で外為法・偽証罪で逮捕されたのは昭和54年7月。私は役員となりすでに第一線から離れていた。縁というものはそういうものであろう。室伏哲郎はその著書のなかでいう。「戦後30余年、田中と海部はモーレツ人間として、なりふり構わず働き、辣腕をふるった」(海部八郎―乱気流の復権・三天書房)
ともに刑事被告人となったが、昔はこのように「寝食を忘れ家庭を顧みず」働いたモーレツ人間がいたのである。昨今は人間が小粒になった。家庭を大事にする人間が多くなった。時には海部軍団のテキスト「悪の論理」(倉前盛通著)読むべきと思うのだが・・・
海部八郎は平成6年6月28日、死去、享年70歳であった。
(柳 路夫)
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