2013年(平成25年)2月20日号

No.565

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追悼録(481)

同期生津田幸治君逝く

 

 同期生荒木盛雄君からメールが来た(2月10日)。「昨日津田幸治君の告別式に行ってまいりました。59期生は10人でした。西村博首都圏代表幹事の弔辞が立派でした。生前と少しも変わらぬ顔の棺を前にして校歌を斉唱し、去りゆく霊柩車を全員で挙手の礼をしておくりました。

 73歳で大腸がんに始まり、胃がん、前立腺がん、最後は肺がんであったとのことです。壮絶なガンとの闘いだったにもかかわらず、淡々として麻雀をしてその腕前も私より上でした。

俳句を少し
 春浅し弔辞切々堂に満つ
 読経の音天に昇れり凍返る
 香煙にゆられて君は涅槃西風
 棺を前に校歌斉唱冴返る
 凍返る去りゆく車に挙手の礼」

 津田君は2月6日死去、享年87歳であった。予科を満州・新京の同徳台で送り本科を神奈川県・座間・相武台で過ごした。兵科は歩兵であった。告別式が行われた東京・高円寺南の観音寺での出棺を「挙手の礼」で送ってほしいと遺言していた。

西村君の弔辞の一部を紹介する。
 「君は首都圏幹事として59期生の運営に参加され、また麻雀、カラオケの世話人として、また靖国神社の昇殿参拝の仲間として親しく同期生の交流に寄与されておりました。かねてより胸部の痛みを語られ、最近は病床にある由で心配しておりました。薬効むなしくお別れの事態になりましたこと誠に痛恨の極みであります。
 君は昭和18年4月、戦況苛烈に戦局の逼迫していた時局下に宮城県立築舘中学より祖国に殉ずるために満州軍官学校を経て陸軍士官学校第59期生として栄光の門をくぐられました。その日より我共は血盟の同志として純粋で充実した日々を重ね,一死国に報いんとする誇りを持ち、若き魂の躍動と感激のみなぎる台上の生活に終始しました。不幸にして志半ばにして無念の終戦の日を迎えてより新生日本の新しき礎となるべく、それぞれの道を選んだ中に、君は東北大学経済学部をへて東京都庁に入り、杉並区役所監査局長に至るまで公務員行政の本堂を踏破されました」
西村君は津田君の同期生に尽くした功績を我々の誇りとすると弔辞を結んだ。

 津田君は本科15中隊で16中隊の歩兵科の同期生とともに昭和20年6月から8月末まで長野県佐久郡南御牧村(現作久市)に長期演習の名目で疎開した。ここに当時村長であった依田英房さんが昭和41年に建てた『遥拝所跡』の碑が立つ。今年もまた4月23日「碑前祭」を行う。記念に植えられた100本の桜は今年も我々を温かく迎えてくれることであろう。


(柳 路夫)