安全地帯(385)
−信濃 太郎−
新聞・出版物の見出しに歴史あり
古い話だが当時、大変な話題を呼んだ。昭和27年8月6日号の『アサヒグラフ』は「原爆特集号」を出した。第1ページに白抜きで「終戦詔書」よりとして「頻リニ無辜ヲ殺傷シ」という文字が描かれ、その左側に全身焼けただれた男、女、男の三つの被害写真が載せられた。非常な反響を呼び4回も増刷した。部数は70万部を数えた。編集長は伊沢紀(劇作家飯沢匡)が編集会議で終戦詔書の一節「―頻リニ無辜ヲ殺傷シ・・・」を呟いて「8月6日号の全頁をあげてこのむごたらしさを余すところなく世界の人に見せてやりましよう」と決意を語り取り組んだという(扇谷正造著「夜郎自大」・TBSブリタニカ)。
この見出しは詔書の言葉であるが見事な引用である。「原爆特集」にはぴたりである。そのセンスは見事というほかない。ここに謎がある。私の手元に「終戦の詔書」の原本の写しがある。詔書は墨字で内閣理事官・佐野小門太が謹書した。「裕仁」御璽のあと、内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎以下16名の大臣がそれぞれ墨字で署名している。ところがこの詔書には「頻リニ無辜ヲ殺傷シ」の9文字が抜け落ちている。なぜ抜け落ちたのか。昭和20年8月15日の朝日新聞の一面トップに掲載された「詔書」には「敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ『頻ニ無辜ヲ殺傷シ』惨害ノ及ブ所真ニ測ルベカラザルニ至ル」とある。詔書の起草者は内閣書記官長・迫水久常。それに漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)、安岡正篤(大東亜省顧問)が加わっている。最終段階で「頻リニ無辜ヲ殺傷シ」を削除したのであろう。昭和天皇が録音される時にはこの原文(詔書)を読まれたのだからNHKで放送された際にはこの文言はなかったはずである。私はこの“終戦の放送”を西富士野営演習場で聴いている。当時、ラジオは雑音が多く聞きづらかった。「堪エ難キヲ堪エ忍ヒ難キ忍ヒ」しか聞きとれなかった。本来、新聞発表の際には放送された原案を公表すべきであったのを敗戦のどさくさに紛れてなぜか、削除前の素案がそのまま出たとしか考えられない。そのお陰で伊沢紀編集長の戦後最大のスクープが生まれたわけである。
戦前の最大のスクープは昭和16年12月8日の大東亜戦争の開戦日を抜いた毎日新聞である。一面の見出しは「隠忍自重限界に達す,断乎駆逐あるのみ」「国民いよいよ空襲の覚悟必要」。社説も「米国野望を撃退せよ」であった。社会面は何にもない。さびしすぎるというので社会面の整理部デスク山本光春(のちの社長)が金春流の家元が新作「時宗」を上演するという記事を社会面トップに据えた。「断じて立つ 一億の時宗」と見出しをつけ「肇国以来、外国の侵入を許さなかったわが国もいまや空爆”の危機を覚悟しなければならない事態に到達した」と書いた。芸能記事、能楽「時宗」を社会面のトップに持ってくる芸当は並みの記者ではできない。他社には日米交渉を伝えるのみで開戦をにおわす記事は一行もなかった。見出しに歴史あり。幾多の先人の苦労が偲ばれる。
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