2013年(平成25年)2月1日号

No.563

銀座一丁目新聞

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追悼録(479)

仏文学者朝吹三吉をしのぶ

 

 仏文学者・朝吹三吉が名声を求めず、自分を社会に押し出すのを嫌った「孤高の人」とは知らなかった。私はジャン・ジュネの「泥棒日記」(1956年)、ボーヴォワールの「レ・マンダラン」(1967年)の翻訳者と知っていたのに過ぎない。このような傑物がいたとは迂闊であった。朝吹三吉を教えてくれたのは石村博子さんの「弧高の名家・朝吹家を生きる・仏文学者朝吹三吉」(角川書店・平成25年1月10日発行)である。亡くなったのは2001年2月3日、87歳の誕生日2月7日を迎える直前であった。すでに12年もたつ。18歳でパリに行き、高等中学校、大学で文学、哲学、美学を学び第二次大戦前の1936年に帰国する。父常吉は三越、帝国生命保険(現朝日生命)の社長を務めた。母磯子は日露戦争で大本営参謀次長を務めた長岡外史中将(陸士2期)の長女。1985年95歳で亡くなったが、磯子は女子テニスプレーヤーの草分けであり歌人であり最先端のファションを着こなす自由な女性であった。1921年に英国人女性の家庭教師を5人の子供のためにわざわざ英国から呼んだのも磯子であった。家庭では兄妹喧嘩も途中から英語になるほどであった。磯子が朝吹家に芸術性と華やかさをもたらしたといわれる。三吉は部屋に写真を飾り、格別な愛情を持って母を語ったという。

 「泥棒日記」の翻訳でフランス文学者としての地位を確立したのに一向に自分を表に出さなかった。評論家の加藤周一さへ「私はこの人ほど謙遜な話し方をする人物に出会ったことがない」と言っている。慶応大学で選挙によって法学部の副学長に選出された際にも頑として受け入れず法学部始まって以来のやり直し選挙となったこともある。

 朝吹三吉の真骨頂は若者への理解にある。ダダもシュルレアリスムもともに若い人たちによってはじめられ推進されてきた。若い人たちこそ古い時代を否定し、自分たちの価値を作り上げたいという野心を抱き、それを推し進める気力、若さの特権を認めた。1970年前後、慶応大学でもバリケードが築かれ、教授側はすべて体制派とみられ三吉も「反動派の教授」として糾弾の対象となった。この時、三吉は激昂した。「反動とは何か。僕は彼らの側なのにー」。三吉の心境を考えれば無理もない。

 三吉が「彼女を導いていくのは僕の務めである」という妹・朝吹登水子について触れる。三吉は生涯この誓いを守り通した。ともにパリで過ごし、彼女の離婚にも温かい目配りをする。登水子がフランソワーズ・サガンの「悲しみよ 今日は」(1955年6月‣新潮文庫)で社会的話題をさらった後も三吉の影がつねにあった。

 最後に著者の石村博子さんは書く。「人はこの世を去っても深い思いと愛情は残り続ける」。三吉の文学や芸術への愛情は二男で詩人の亮二に連鎖し、さらに孫娘で芥川賞受賞の真理子へと流れ、受け継がれることになった。深い思いと愛情は何らかの痕跡を残す。時には思いもかけない形で再生し、人々の前に甦るということを思わせるという。


(柳 路夫)