安全地帯(383)
−湘南 次郎−
わが恩師
前置きであるが、齢をとると最近のことはすぐ忘れ、古いむかしの思い出がだんだん鮮明に浮かんでくる。こうなると、相当老化が進んできたと自覚せざるを得ない。
私は、今でこそ東京都杉並区ではあるが、当時は豊多摩郡高井戸町(その4,5年前までは村であった)の高井戸第二尋常小学校にお世話になった昭和12年(1937)3月の卒業生であった。むろん、いたずら坊主では引けを取らず学校前の墓場の卒塔婆を引っこ抜いてスキーにしたり、下の川で赤ガエルを捕まえ、たき火で焼いて食ったり、青大将に追いかけられて川に飛び込んだり、わが人生に悔いはない。その悪戯っこを育ててくださったのが、恩師(当時は訓導と言った)の守屋 好三先生であった。
先生は、3年生から5年生まで3年間続けて担任していてくださり、酒が大好きだった。授業中気持ちが悪くなって、窓の外へ生つばを吐いているのを見、みなで心配したことがあるが、大きくなって考えればあれは二日酔いだったんだな。スポーツマンで走り幅跳びは抜群で、空中で脚を前後に動かすのをみなで真似したものだ。運動会では教員の駆けっこで、いつも一番なのが私たちの自慢であった。そして、授業は良く、面白く、楽しかった。
先生の実家は今の聖跡桜が丘分譲地のあたりの農家の大地主のお子さんであったので、言葉が私と同じで粗野(方言つまり武蔵野言葉なのだから仕方が無い)であった。あとで実家へ引っ越され、卒業後のクラス会のデザートにみなでお宅へリュックをかついで名産の多摩川梨を沢山戴きに行ったことがある。
隣の第四小学校へ教頭で移られたが、それからの生活が型破りであった。お勤めの関係もあったのだろうが、酔っ払っては学校の宿直室へ寝泊まりされることが多かった。街中に近く、一杯ひっかけてちびた下駄をはき、パチンコやで大声あげて「出ねーぞー」。傑作なのは、酔っ払って間違えて女風呂の脱衣所へ入ってしまった。すかさず、PTAのお母さんが「あら先生、お背中流しましょうか?」(ご立派)という伝説がある。
こんな先生だが、伊豆七島の御蔵島の校長で赴任される時はお餞別が当時のお金で数十万円集ったという話が残っている。また、島の学校に子どもたちに読ます本が無いと伝えて来ると、PTAや教え子の有志が運動して沢山の寄贈の本が集められ、島へ送られた。先生への信望は当地から離れていても続いた。三宅島へ転勤になった時「おめー、おらあ、しょっぺー(塩辛い)しゃけ(鮭)が、でー(大)好きなんだ」と言われたのを思い出し、塩鮭の辛いのを送って喜ばれたことがあった。
桜が丘の豪邸へお伺いしたことがあるが、帰りに門から身を乗り出して、隣近所をかまわず大声で「気を付けてケーれ(帰れ)よ」。今でも耳から離れない。天衣無縫の恩師だが、先生は先生、生徒は生徒、お互いに「分」はしっかり自覚していた。子弟の阿吽(あうん)の呼吸、大らかさは今のチマチマした教育者には爪の垢ほどもない。わが尊敬する恩師守屋 好三先生は10年ほど前100才の天寿を全うされ、一杯やりながら多摩に眠っていらっしゃる。 合掌
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