安全地帯(380)
−川井 孝輔−
一茶双樹記念館を訪ねる
世に著名な名所旧跡が多いが、これをもれなく見ることは当然のこととして不可能である。ただ「灯台下暗し」の喩があるように、意外と身近なところに埋もれたようにあるものを、見落とすことがあるとすればいかにも勿体ない。首題はまさにそのような旧跡の一つだと思うのだが、我が家からは車で15分ほどの流山市にあった。
流山市は江戸時代から、江戸川を利用した舟運が盛んで、野田市の醤油に対し,みりん(天晴れ)醸造の街として栄えてきた。その開拓者の一人、五代目の秋元三左衛門(1757〜1817)は、本業の傍ら双樹と号して俳句をこよなく愛した。小林一茶(1763〜1827)と深い親交を結ぶこととなり、支援を惜しまなかったので、一茶はこの流山に50回以上も訪れたといわれる。秋元家の最盛期には、広大な敷地に醸造施設並びに住宅など22棟もの建物があった。住宅の中心をなす新屋敷は、明治に入って宮家の宿泊画あったほどの由緒ある貴重な建物であった。流山市は平成2年にこの地を「小林一茶寄寓の地」として指定記念物(史跡)第1号とし、土地建物を買い上げ改修・復元工事を経て、一茶双樹記念館を発足させた。醸造施設はキコーマンが継承して、みりんの製造は今なお続けられている。記念館は新屋敷改め双樹亭と一茶庵からなるが,館の入り口は二階建て秋元家の店舗を再現してあり、二階部分は展示室になっていた。店構えの入り口を通りぬけた処に、記念館の玄関がる。双樹亭は寄棟の瓦葺で下屋下部分は銅版平葺。玄関を入り一茶庵を抜けえて双樹亭に入ると、コの字型の廊下が三部屋を南側から囲むようにして続く。開放的な佇まいはまことにゆったりして、落ち着いた雰囲気がただよう。ガラス戸なしの開けっぴろげの廊下が、部屋戸は10p程の段差があるので敷居に腰を下ろしてみると、子供のころのひなたぽっこが思い出されて懐かしい。庭は写真に見る通りの規模ながら素晴らしく枯山水作りの庭は紅葉を透した木漏れ日が明るく、しばしの間静寂の中を瞑想?にふけることができた。無念無想の貴重な一時であった。
江戸時代(およそ1600から1866)の中頃に生まれた一茶は松尾芭蕉(1644〜1694)、加賀千代女(1703〜1775)、与謝野蕪村(1716〜1784)らとともに江戸時代の俳界を風靡した。芭蕉1000句千代女1700句、蕪村3000句に対して一茶20000句を残したといわれ、わかりやすい句が特徴である。
一茶の代表的な句を上げる。
めでたさも中位なりおらが春
痩せ蛙負けるな一茶これにあり
名月をとってくれろと泣く子かな
我と来て遊べや親のない雀
雪とけて村いっぱいの子どもかな
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