毎日新聞物故社員追悼会に参列する(9月21日・東京一ツ橋・東京本社)。物故社員総数7066柱、本年度合祀者149柱に及ぶ。不義理をした先輩、同僚が少なくない。毎年この追悼会に参列、心から手を合わせる。
社会部の先輩・今井太久弥さん(享年92歳)の名があった。地方版に掲載されたのであろうがなくなられたのを知らなかった。昭和25年から4年間警視庁記者クラブで一緒に働いた先輩である。敏腕記者であった。会社の寮に入るのにも世話をしていただいた。退職後は市会議員にもなったと聞いた。最近堤哲君から頂いた社報(昭和24年5月24日号)には昭和24年春、社内対抗野球試合に社会部チームに一緒に出場している。警視庁記者クラブのキャップの若月五郎さんも出ている。これを見ると私の警視庁記者クラブ入りは社内野球が縁で若月さんや今井さんが引っ張ったのがわかる。私は察回りでよく働いたからだとうのぼれていたが間違いであった。この試合で私は3塁打を含めて3安打を打っている。名ショートと言われた。63年目にして納得する“事実”である。
安養寺喬君(享年84歳)の名もあった。温厚な教育記者であった。菊池寛賞を頂いた長期連載企画「官僚ニッポン」で一緒に取材した。私とはよくコーヒーを飲んだ仲間であった。
物故社員追悼会の前夜、調布市西つつじヶ丘の延浄寺で開かれた細島泉さん(享年88歳)の通夜に参列した。細島さんは毎日新聞では後輩だが陸士では私より2期先輩の57期の陸軍中尉であった。昭和52年4月私が編集局長になった時、当時論説委員であった細島さんの自宅に伺って編集局次長への就任のお願いをした。世が世なれば士官候補生の軍曹の私は、中尉である細島さんには直立不動の姿勢をとらねばならない。無理を聞いていただいた。夫人の照子さんはそのことをよく覚えておられた。細島さんは終戦をスマトラで迎え、捕虜としてシンガポールに送られ、収容所が閉鎖されるまで留めおかれた。帰国がおくれ、大学を出たのは昭和27年であった。
『梁塵秘抄』に遊女が死に臨んで自らの得意芸であった今様で阿弥陀如来への信仰心を吐露した歌がある。「われらは何して老いぬらん 思えばいとこそあわれなれ 今は西方極楽の誓いを念ずべし」。年とともに宗教への関心が強まってくる。遊女の気持ちがなんとなくわかる。無為には過ごしたくないと思う今日この頃である。
(柳 路夫)
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