2012年(平成24年)9月20日号

No.551

銀座一丁目新聞

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追悼録(466)

市ヶ谷台慰霊祭に思う

 

 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にあるメモリアルゾーンで開かれた「市ヶ谷台慰霊祭」(主催偕行社)に参列する(9月12日)。この地は日本陸軍の聖地であった。明治7年12月から昭和16年9月まで陸軍士官学校があった。大東亜戦争中は陸軍省もあった。敗戦時には幾多の将帥が敗戦の責任を取って自決している。自衛隊発足以来、殉職者は1800人を超える。自衛隊殉職者の立派な慰霊碑もここにある。この日の参列者は140名。国会議員は中谷元さん、佐藤正久さん、宇部隆文さんが、自衛隊では君塚栄冶幕僚長らがそれぞれ出席した。かっては総理として小泉純一郎さん、安倍晋三さんが出席された。ここにたたずむと様々な思いが起きる。

 昭和20年8月15日未明、阿南惟畿陸相(大将・陸士18期)が「一死以て大罪を謝し奉る」と自決された(東京・千代田区麹町三宅坂陸軍大臣官邸)。15日の夜、士官学校があったころ生徒たちの訓練に用いた海岸重砲の西側のところで荼毘に付された。棺をうずめた薪にガソリンがそそがれ、58期生として航空士官学校に在校中の長男惟敬さんが火をつけた。綾子夫人、阿南大将の岳父、竹下範国少将の未亡人梅子さんも立ち会った。この時、国体護持のために終戦に承服できず宮城事件を起こし皇居前で自決した椎崎二郎中佐(陸士45期)と畑中健二少佐(陸士46期)の遺体も荼毘に付された。二人とも阿南陸相の言葉に背いて事を起こした後輩であった。参謀次長、河辺虎四郎中将(陸士24期)は日誌に書く「かくて我が大陸軍の70年の歴史は、阿南大将の自決を持って終止符となすべきか」。昭和27年昭和天皇が九州巡行された際。大分市で綾子夫人の姿を目にとめられ「どうして暮しているか」と声をかけられたという。この日は遺族として阿南惟正さんが焼香された。

 第一総軍司令官・杉山元、元帥(陸士12期)は9月12日、自決、その知らせを自宅で受けたケイ夫人が短刀で心臓を突き,元帥のあとを追った。第一総軍司令部付であった吉本貞一大将(陸士20期)も9月14日、自決された。若い参謀も責任を取ってこの台上で割腹自決している。大本営作戦参謀の晴気誠少佐(46期)である。太平洋正面担当者でサイパン・グアムの失陥に責任をとったものである。グアムで戦死した第31軍司令官小畑英良中将(陸士23期・戦死後大将)は「われ身を持って太平洋の防波堤たらん」と部下将兵に訓示した。サイパンでは戦死者28518名を出した。捕虜921名、米軍に収容された邦人約1万名、邦人の戦没者約1万名を数える。

 戦後、日本は戦争を一度もしなかったので戦死者は一人も出ていないが毎年、自衛隊では殉職者を出している。激しい訓練をするのだから当然である。それは万一の事態に備えるためである。この日防衛大臣の姿がなかったのをさびしい限りであった。私は59期生を代表して焼香した。同期生では塩田章君、清水覚君、西村博君が参列した。

 『鎮魂の思い深けれ秋の空』悠々


(柳 路夫)