文治2年(1188)4月8日、鎌倉鶴岡八幡宮舞殿には、亡き義経の妾女、白拍子(しらびょうし)静御前の舞を源 頼朝夫妻以下の面々が見物するという、華やいだ雰囲気に包まれていた。愛する義経を殺され、(註…現在妊娠中、後にその赤子まで由井の浜で命を絶たれた)憎い頼朝に、再三、舞を所望され、拒み続けて来たが、ついに舞を披露せざるを得ず、彼女も意を決するものがあった。
美しい舞に頼朝夫妻をはじめとし、衆人環視の中、静はまず、舞の始めに
「よし野 山みねのしら雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき」、
次に「しづやしづ しづのおだまきくり返し 昔を今に なすよしもがな」
健気にも愛する義経との吉野山雪中の別れの感慨を、晴れの舞台で堂々と吟じながら舞ったのである。さぞ辛かったろう。もちろん命がけであったろう。さすが、義経に愛された若い静の真骨頂がここにある。
本来八幡宮では関東の萬歳を祝うところ、反逆者義経を慕う歌をうたうとは。これには、頼朝は烈火のごとく怒った。これに対する夫人政子の言葉がまた貞女の鑑(かがみ)、ご立派と言うほかはない。「吾妻鏡」のこの条を要約すれば、政子が頼朝に、「あなたが蛭ガ小島に流人としていらした時、私と愛の契りを結びましたが、父北条 時政が平家の威光を恐れ、事態を内密にして私を監禁しました。しかし、あなたの挙兵の際は、私は愛するあなたを諦めず、家から抜け出て、暗夜に迷い、深雨の中をあなたのもとに、やっと辿り着いたのです。
また、挙兵の次の合戦の石橋山(註…下記参照)では、ひとり伊豆山権現に隠れ、あなたの生死を知ることも出来ず、日夜心配していたのです。あなたが静をなじるけれど、私もあのときは、今の静の心のようだった。義経との多年のよしみを忘れ、恋い慕わなかったら貞女ではない。」と頼朝を諭したということを記している。挙兵当時の苦戦を思い起こし、政子の恋慕の烈しさに胸をうたれた頼朝は、あとで、静にもごほうびを与えたという。
(註…「頼朝挙兵」…治承4年(1180)8月17日伊豆三島神社の祭礼の日、頼朝は、政子の父時政と集められるだけの兵を率い、平氏の目代(伊豆国派遣の代表役人)山木 兼隆を討ち取り相模へ向けて進撃するが、平氏側の逆襲に遭い加えて豪雨の中、衆寡敵せず惨敗、湯河原の土肥 実平…湯河原駅前に銅像…などの援けで、かろうじて真鶴より舟で房州へ脱出し、再起を図った)
(参考文献)吾妻鏡、源頼朝のすべて・源義経のすべて・鎌倉北条一族 奥冨敬之著 新人物往来社、
(おことわり)「吾妻鏡」は鎌倉北条氏作成の日記風の史書で、北条氏自身の悪口は書かないので真偽はともかく、その旨含んでお読みください。
(相模 太郎)
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