2012年(平成24年)8月20日号

No.548

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追悼録(463)

伊豆伊東氏の悲劇

 

 NHK大河ドラマ平 清盛が放映されているが、伊豆韮山「蛭ガ小島」へ配流された頼朝が今は主になって物語が展開している。あの、田園地帯の田舎へ鶴が舞い降りたように貴公子が突如として姿を現し、20年も青春時代を過ごしたのだ。近在の若い娘たちの関心を煽ったのは無理もない。まして、流人とはいえ伝来の髭切り丸の太刀を持つ清和源氏の嫡男だ。好男子との言い伝えもあり、その上、京育ち。まわりに女性を作るのは当然の感覚で死ぬまで艶聞がつきまとう。いま、一の家来になる安達 藤九郎の妻にもケがあったらしい。

 そのナンバーワンが選りによって北条 時政と共に、平家より頼朝の監視を命ぜられていた伊東 佑親(現在伊東市)の娘の八重姫であった。佑親が京都大番役(註…宮中警護の当番)へ行っている留守に恋愛関係を持ち、千鶴丸という子供もできる。この女性とは頼朝も真面目に考えていたらしいのだが、治承4年(1180)2月佑親が役を終え帰ってからの悲劇はテレビでご覧ください。監視していた流人の男の赤子、佑親も悩みの末、伊東市を流れる松川に殺して流した。娘は嘆き悲しみ、7月16日侍女六人を連れ、監禁中の部屋を抜け出し頼朝のいた韮山へ向かった。亀石峠(現在伊豆スカイライン)の難路を越えやっと北条 時政邸へ着いたところ、はや、時政の娘政子と結ばれていたので会うことさえできず悲嘆のうちに近くの真珠が淵に身を投じた。6人の侍女たちは主人の遺髪を胸に伊東へ戻る途中、大仁(おおひと)の山中(大仁ゴルフの近く)で自害したという。今にのこる「姫塚」と称し、里人が整備して供養している。また、千鶴丸の遺骸は松川より海に流され富戸海岸「産毛(うぶげ)石」付近(川名ゴルフの近く)に漂着したという。ウソか本当かは別とし、伊東、韮山などには頼朝、佑親に関する伝承が多い。なお、曽我兄弟の事件も伊東一族の内紛であり、また、それを利用した悪もいたらしい。(略)

 佑親は、周囲がみな頼朝に臣従したのに、最後まで頼朝に抵抗、源平合戦に参戦すべく下田の南、鯉名より船で脱出のところを捉えられた。鎌倉へ護送されるが、養和2年2月恩赦で放免になるが、義を貫き自害して果てた。今でも伊東市では英雄であり、崇(あが)められている。(伊東市史、図説伊東の歴史参照)

伊東佑親の墓 伊東市 女塚 大仁町 産毛石 伊東市富戸

筆者撮影


(相模 太郎)