2012年(平成24年)8月20日号

No.548

銀座一丁目新聞

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山と私

(88) 国分 リン

― 追悼・北アルプス入門の山「蝶ヶ岳」 ―  

 私を山の魅力に引き込んだ恩師が急逝した。山で覚えたビールが災いし、肝臓を傷めたが、一生現役がモットーで前日まで仕事をし、翌日あっという間に逝った。大きな支柱が倒れ、虚脱感に悩まされた。3連休に槍を計画していて安全のため片平先生に個人ガイドをまたお願いしていた。友が腰痛になり、「まだ梅雨明け前で天気が安定しないので、上高地へ変更したらどうですか。」「そうね、恩師の追悼で思い出の蝶ヶ岳へ登ろう。」

 初日 宿を日本山岳会の上高地山岳研究所へお願いしたら了解を得て安心し、12時に河童橋から5分凄い立地にあり、混雑を予想したらもったいないほど予約が少なかった。若いご夫婦と女の子3人の家族が日本山岳会から任されて運営している。3階建ての鉄骨造りで立派だ。大雨で水路が壊れてお風呂は難しいかもと言われたが、夕方までに直してくれて、お風呂も入れた。午後から田代池までの3時間コースをのんびりゆったり散策して河童橋に戻ると大勢の観光客に驚いた。でも穂高の山々は顔を出さなかった。
翌日大雨の音にびっくりして目が覚めた。天気予報を見ると今日まで天気が悪いようだ。「今日も、もう一泊されたら」の勧めと、居心地の良さに即答でお願いした。雲が厚く、にわか雨が降ったり止んだり、無理に槍を登らなくて本当に良かった。午後傘を片手に嘉文次小屋まで行き、恩師と飲んだ「岩魚骨酒」を頼み、恩師を想い、共に飲んでいるようだった。
夜、涸沢から下山したグループが「雨で大変だった。」と、奈良からのグループは「焼岳登山は明日」雨で延期した。

 早朝4時半起床、ルールの部屋の掃除機掛けをし、朝食を済ませ準備をして5時半出発。やはり山小屋と実感しながらお礼を言い、明神から徳澤までの道を急いだ。徳澤園に着替え等の荷物を預け、長塀山登山コースに行くといきなりの急登が始まった。シャクナゲ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバの樹林帯を登る頃、青空になった。恩師と登った時には6月第2週でイチヨウランを見つけ喜び、頂上直下の雪に悩まされたが、お天気が良く槍ヶ岳、穂高岳、常念岳の展望が目に焼き付き、圧倒された。ここがやはり追悼の山。
 ぬかるんだ道や木の階段を登り、沼があり11時長塀山2582m到着。お腹が空き腹ごしらえをして、気合を入れ歩き出すと、まだ残雪があり横切りなだらかになり、蝶ヶ池や妖精ノ池の周りは高山植物の宝庫、キヌガサソウの群落に歓声を上げ、シナノキンバイの黄金色とハクサンチドリの赤紫、ハクサンイチゲの白い群落、本当に見事。この花畑を一緒に見たかった。雪解け地にはショウジョウバカマの群落があった。
森林限界になりハイマツ帯になると眺望が開け、蝶が岳ヒュッテの赤い屋根が見え、尾根に出ると風が強い。蝶ヶ岳頂上2677mへ12時到着。でも残念、肝心の槍、穂高は涙雲が遮り、がっかりした。ルート上の常念岳ははっきり見えた。蝶ヶ岳ヒュッテは賑わい風が強く外で眺望を楽しむ人は少ない。少し休憩をとり、尾根歩きを常念岳方面に30分歩き、13時30分下山開始。一周コースの横尾へ下山することにした。始めてのコースで心配だったが、最短コースでひたすら下り15時槍見平着、相変わらず槍は姿見せず。16時横尾に到着、この時間信じられないほどひっそりとしていた。急ぎ徳澤に戻り、この追悼の山も12時間よく歩いた。
 恩師にこの蝶ヶ岳の花畑を心から捧げて、追悼の山とし、私は山登りをできる限り続けたい。