安全地帯(367)
−相模 太郎−
鎌倉瑞泉寺と憂国の士吉田 松陰
鎌倉宮の右横を抜け、間もなく右に故平山 郁夫画伯宅、左に源 頼朝が建立した大寺院、永福寺(ようふくじ)跡の広場を見て、まっすぐにダラダラ坂を10分ほど登ると水仙と、梅、山水の庭園で美しい、有名な臨済宗瑞泉寺に突き当たる。歴史を思わせる階段を上ると、景色が開け瑞泉寺本堂、庭園が見えて来る。小さな山門を入ってすぐ左の木立の中、一段高く立つ2bほどの「松陰吉田先生留魂碑」(徳富蘇峰揮ごう)の刻まれた石碑に気付く人は少ない。観光客の目は水仙の中にあでやかに佇立して咲く梅の古木が点在し、優雅なお堂や、発掘で最近全容を現した庭園であって、碑に気が付いても関心はない。
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瑞泉寺本堂 |
松陰吉田先生留魂碑 |
長州萩出身の吉田 松陰(寅次郎)は、21才で嘉永3年(1850)平戸、長崎、熊本と遊学、清国を通じて持ちこまれた西洋の文献を読破した進取の気性溢れる青年であった。松陰は母方の伯父で、鎌倉瑞泉寺第二十五世の住職、竹林和尚を、嘉永4年(1851)以来4回も訪れている。まだ、当時本堂、開山堂、客殿が無く淋しいお寺だったようだ。
同年藩主に従い江戸へ上り、同志に京都池田屋事件で新撰組に襲撃され、45才で自決した熊本の宮部 鼎三を友に得、嘉元5年(1852)藩に無断で東北地方へ出奔、水戸、会津、仙台、弘前、越後方面を探求したが、命により、いったん萩に戻され、自宅謹慎となり、そのとき松陰と号した。
嘉永6年(1853)藩の許しを得、諸国漫遊、伊勢神宮に参拝し、江戸へ。そして瑞泉寺訪問は、住職より裏の山頂にある徧界一覧亭(現在閉鎖中)に案内され、江戸湾を一望に見たようだ。和尚へは母、滝から託されたきび粉を進呈した。
江戸では、当時の先進砲術学者、佐久間 象山(しょうざん)に学び「日本の防備の現状で鎖国や攘夷が出来るわけがない」との言葉に、持ち前の愛国心と向学心が開眼し、必死になって外国の情報を得るため清国、オランダから持ちこまれた文献の漢訳本を読破し、国際認識を広め、ひそかに密航を企てていた。6月ペリー浦賀に来航、象山と浦賀へ偵察に。そこで、一日でも早く西欧の文明を摂取する必要があると痛感する。9月長崎に来航のロシア軍艦を利用し密航を企てたが時すでに遅く、出港後で間に合わなかった。
翌、安政元年(1854)3月ペリーが下田に再び来航を知る。松陰は3月14、15日瑞泉寺を訪問し、その後、下田に向かう。これが、瑞泉寺、伯父住職との最後の別れになった。同志、金子 重輔(のちに獄死)となんとか交渉して米軍艦に乗り込もうとしたが、幕府との交渉のために密航は拒否、陸に戻されたがすぐ役人が逮捕、重罪人として長州へ送り返され野山獄に収監となった。
翌年4月には、囚人のために、獄中で孟子の講義を始め,12月出獄。27才、安政3年(1856)8月22日萩の杉家で謹慎幽閉の身ながら、兵学の講義を始めは井伊 直弼の行った安政の大獄で連座し、再び萩の野山獄に投獄され、それより江戸伝馬町の獄舎へ送られ、遂に安政6年(1859)10月27日処刑された。数え年30歳であった。亡くなる前日の26日黄昏に書きあげたのが、有名な「留魂録」であった。この2年数カ月、松下村塾の強烈な徹底した愛国、憂国の思想教育が子弟等を奮起させ、教育は輪廻(りんね)し、薫陶は脈々と受けつぎ、国家、社会に活躍した者は多数であって、明治維新の原動力となったことは間違いない。
松陰は、外国密航の企ての前には、瑞泉寺を訪問して、伯父、竹林和尚に、自分の企てを話して精神的にも経済的にも協力を求めてもらっていたのではないだろうか。萩の野山獄中で、はるか鎌倉瑞泉寺を偲び、夢に訪ねたのを詠んだ漢詩が残っている。松陰は一介の野人であり、和尚を支柱として尊敬、思慕していたと思われる。さすが、松陰の血脈、よほど開けた、大胆な僧侶であったに違いない。現在の優雅な寺院には想像もつかない歴史をこの碑が語りかけている。松陰惜しむべし。僅か29年を燃焼しきった生涯であった。
(参考)
○伝馬町獄送りの途次、忠臣蔵の高輪泉岳寺の前で
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
○獄中で死刑を覚悟した6月22日肉親への永訣の書の中で
「親思う 心にまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」
○処刑前日書きあがった「留魂録」の冒頭
「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」
○絶命の詩
我今国の為に死す 死して君親に背かず 悠々天地の事 鑑照明神に有り
(参考文献)鎌倉市史、かまくらこども風土記、日本歴史の旅・鎌倉史跡事典(新人物往来社)、今日の風土記(光文社)、日米交流150周年文書(NY日本総領事館)、松陰神社史 写真は本人撮影