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花ある風景(465)
並木 徹
津波と「稲ムラの火」
小泉八雲についてまた触れる。「TUNAMI」と言う言葉を世界に知らしめたのは八雲が明治30年(1897年)に出版した「生き神」(「仏の畑の落穂」)である。この本の中で浜口梧陵が稲束に火を付け村民に『津波』が来るのを告げ、村を守った話が綴られてある。これは1854年12月24日に起きた「安政南海地震」の出来事である。マグニチュード8・4、津波の高さは6mから8m、被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千といわれる。物語に出てくる梧陵は孫もあるおじいさんだが、新生ふるきゃらのお芝居「稲ムラの火」(8月3日・日本橋・三越劇場)に登場したのは青年(その時34歳)であった。銚子で醤油製造販売・広屋(現ヤマサ醤油)を営んでいた。たまたま広村に帰郷していて大地震にあった。地震の直後、海の異変に気がつく。村も甚大な被害に遭うが人命は助かった。早速、故郷の復興のために身をこなして働く。被災者用の小屋の建設。農機具、漁業道具の調達にあった。さらに津波対策のために堤防の建設に当たる。それに比べると東日本震災の復旧の遅いのはどうしたことか。
災害の翌年から4年間、延べ人員56736人、銀94貫を費やして全長650m、幅20m高さ5mの「広村堤防」を完成した。ちなみに銀94貫の値段は金1両を銀60匁の比率とすると1300両の値段になる。この堤防は昭和21年12月21日早朝に起きた南海地震(マムニチュード8・4)の際、津波から広村の住民を守った。この地震により串本町や海南市は津波による壊滅的な被害を受けた。死者は、行方不明者を含めて1,443名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸に及んだ。
私財をなげうって堤防を完成したご梧陵を村の人々は『浜口大明神』と呼んだ。小泉八雲に言わせると「村の連中は老人の心魂を神と信じ込んで」一宇の堂を立てて祈念と供物を持って参拝した」という。
ふるきゃらの演出家、石塚克彦さんは縫製の仕事を天職と思っている東北地方のお母さん達と津波にめげず立ち上がろうとしている中小企業の社長さんを題材とした新作のミュージカルと取り組んでいるという。乞うご期待と言うところである。
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