2012年(平成24年)8月10日号

No.547

銀座一丁目新聞

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茶説

昭和20年8月15日のころ

市ヶ谷 一郎

 筆者は大東亜戦争終戦に遭遇した陸軍士官学校第59期生歩兵科の士官候補生で、当時19歳、現在の小田急「相武台」駅としてわが母校の別称が残っている。隣の区隊(クラス約40名)には、余り目立たないが紅顔可憐の美少年?一見、真面目そうで飄々と、笑わず冗談を言う牧内 節男という面白い男がいた。彼は陸士の同期、平井 一郎・故 開 真(ひらき まこと)君とともに毎日新聞記者として活躍 、風聞だが当時人気のあったテレビ「事件記者」のモデルになったとか、その後福岡で西部本社代表や、スポニチの社長などを歴任された。彼とは戦後なんとなくゴルフや会合で会う機会があり話をするようになる。もっとも、同期生ともなれば同じ釜の飯を食い、生死を共に、シボられた仲間同志だからすぐ打ち解けられる。私と同じく酒・タバコをやらないのでコーヒーで談論風発、適当にトボケたり、けなしたり、冗談が言えるのが有難い。誠実で実行力があり全国や首都圏の同期生代表もやってくれた。実はこの戦友がだれあろう『銀座一丁目新聞の主幹』牧 念人氏である。いつか読者諸氏に彼のことをご紹介したかった。「牧内よ、120才まで生きるなどとケチなことをいわず、生涯現役、健闘を祈る!」それ以上生きてもらいたい人なのである。
 
 話変わって本題に入ろう。時は昭和20(1945)年8月15日59期生歩兵科の候補生は、西富士(現在の朝霧高原)演習場で実弾射撃と実際の兵を指揮する訓練を行っていた。
ここは20年1月にも厳寒マイナス10℃のなか歩兵砲の実弾射撃訓練を実施したところであり、おまけに着弾で枯れ草に火が着き、何十門の砲列の射撃中止の連絡が遅れ、折からの駿河湾から吹き上げる強風により大山火事を起こし、水がないので携行のシャベルや、わずかに生えている松の枝で消火に出動し、不運にも私が火に巻かれ顔面に大やけどを負ってしまった草原である。

 どうもこの演習場は、私には縁起が良くない。8月14日の夜を徹して行った終夜演習を終え午前休養をしていたが、12時に重大放送があるとの知らせがあり、冬とは取って代わり酷熱40℃の炎天下,営庭に集合した。固唾をのんで天皇陛下のお声を生まれて初めて拝聴するが感度不良。かろうじて聞けても、想像もつかぬとんでもないことだけに、みな、なかなか意味が呑み込めず、アナウンサーの解説により次第に判明してくる。

 あるものは嗚咽し、あるものは慟哭し、大変な愁嘆場となった。みな泣きながら宿舎に戻ったのだが、今まで尽忠報国のため日夜勉学、訓練した人生が音をたてて崩れて行くのがわずか19才の多感な胸に響く。ところが偶然私ひとり「ポツダム宣言」という言葉を知っていた。実は、当時士官学校が信州の各小学校に疎開していて、廊下に毎朝、新聞が張り出されていた。多分8月始め富士の演習へ行く直前のこと、普段は忙しくて目もくれぬ新聞の下のコラム欄に小さく「米、英、支三国『ポツダム共同宣言』」として大略が載っていた。相変わらずの宣伝と思いながら、一瞥したのが、まさか、まさかであった。

 それは原文「9、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラルタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機會ヲ得シメラルベシ。」というのを見ていてなんとなく記憶にあったのである。みなは、アナウンサーの解説も始めの玉音放送ショックでうわの空だったのであろう。区隊の戦友に武装解除、自宅へ帰るという次第を教えるが、いくら説明しても納得ゆかず、陛下のお声を拝聴したのは始めてなので、信用出来ずついには君側(くんそく)の奸(かん)の策謀と、悔し涙を流しながら徹底抗戦が主流である。そのうちに実兵指揮に参加していた某兵長が数人の兵を連れ、私のところへ短刀を持って現れ、兵隊たちが帰れると言って喜んでいるが、俺たちは敵と一戦交えたいと真剣に言って来た。なんとか、なだめ帰すというおまけまでついた(彼には戦後、偶然電車の中でお会いし、警察官になっていた)が、私は予備知識があったので詔承必謹(陛下のお言葉を守ること)、江戸っ子らしく国の命令でダメなら諦め、もし、戦うなら花と散ろうとその晩、腹を据えたらぐっすり眠ることができた。あとで聞いたのだが、さすが父は兵役に行った経験もあり、以心伝心、サッパリと母に私のことは同じように諦めさせていたそうだ。有難い親父であった。

 とにかく、陸軍省命令で軍隊の移動は禁止という通達が出たそうだが、学校の幹部はわれわれ候補生を連れて本校の相武台へ帰るため、翌日の夜、富士の宿舎を出発、約40sの完全軍装(実弾120発腰に携行)で重機関銃と同弾薬を積んだ馬を曳きながら二日がかりで帰着。さすがにみな行軍中に考えたのであろう。元気喪失、ポツダム宣言の意図を認識したらしく諦めたようだった。そして8月30解散式を終え、後ろ髪を引かれつつも、日本再生を誓い合いそれぞれ帰郷の途についた。かくて、明治7(1874)年開校より71年、卒業式には天皇陛下行幸の光栄ある陸軍士官学校の終焉となった。

 人生はあざなえる縄のごとし。夢のような人生86年。われら今日あるのは、あの時、同期生が軽挙妄動せず、万感の悔しさを胸に秘め故郷に帰り、おのれが分に従い第二の人生を「坂の上の雲」に向かって奮闘努力した結果だったことを忘れないだろう。
はや、幽明境を異にした同期生諸君の冥福と、余生を過ごしている方々の健勝と厚誼を祈るや切である。