2012年(平成24年)8月10日号

No.547

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花ある風景(464)

 

並木 徹

 

 小泉八雲の「日本の面影」
 

 ラフカディオ・ハーンは日本を愛してやまなかった。日本の単純、温和、丁寧、親切、ホホエミ、幽霊にその良さを見た。朗読座第1回公演「日本の面影」(7月24日・六本木・俳優座劇場)にはそのことが良く演じられていた。ハーン役の草刈正雄は好演した。ハーンが日本にいたのは14年間だけである。つまり40歳になる明治23年4月4日、船で横浜に来日。松江の中学校と師範学校の教師となるのはその年の7月19日。54歳で亡くなる明治37年9月26日までの14年5ヶ月の間である。明治時代は日本の近代化を急ぐあまり日本の古来の美風を情け容赦なく切り捨てて行く。明治24年11月17日には熊本第五高等中学校に転任する。ここで英語科の主任教師と日本の美風と近代化について論争する。主任教師は言う。「ここを出た者は直ちに九州の行政・産業の戦力になるのです。中央へ出て日本の戦力の中心となって日本を繁栄させてゆかねばならんのです。ただ温和、単純、親切丁寧であればよいなどとどうしていえますか・・・」ハーン「学生はどんどん利己的になってゆきます」。このハーンの嘆きは現在の心ある識者の嘆きと全く同じ。今の日本と同じく当時も理性や効率と言う目に見える価値を追い求めたのであろう。現代はますます自己中心的になりつつある。

 ハーンの妻セツは大家族であった。実母・実弟のほか養父母・養祖父5人の面倒を見ていた。ハーンの月俸100円の中から20円を頂いていた。熊本で月俸は200円に上がった。このころの女の内職の賃金は10銭以内で飯代がやっという時代であった。20円がいかに貴重であったかわかる。

 セツはよくハーンに幽霊話をする。早まって葬られた母親からお墓の中で子供が生まれ、母親の幽霊が1厘の水飴を買って子供を育てていた話。幽明異なるが行き来して赤ん坊を育てるのは何ともいえず怖いが温かみのある話である。ハーンが好きそうな幽霊の話だ。耳なし芳一の話も面白く聞いた。亡者の呼び声に応じた芳一が八つ裂きにされるというので和尚が芳一の体に亡霊を避ける般若心径を書きつけた。ところが耳にお経を書くのを忘れたため亡霊に耳だけ持って行かれたという話である。仏に仕える和尚荷も失敗はあるということか、それとも仏の慈悲にも限界があるということか。幽霊話はそこが面白い、とハーンは思ったに違いない。44歳の明治27年10月、熊本生活におさらばして神戸クロニクル紙の論説記者になる。月俸100円。次いで明治29年9月、東京帝国大学文科大学講師となる。月俸400円。最後の場面で死んだばかりの松江の中学校の教頭・西田千太郎が現れて話を交わす。死者との対話である。セツはそんなこと世間に話してはいけないという。私は昨今、死んだ友人とよく夢の中で話をする。目が覚めると、何を話したのか思い出せない。芝居を観終わって私は数学者岡潔さんの話を思い出した。新聞記者に「先生のいう情緒とはなんですか」の質問に「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」とこたえたという。ハーンはこの日本の情緒を愛した。この芝居を見てますますそう強く感じた。