友人たちの勉強会である「相武台会」に出席した(7月28日・神奈川県東林間)。ここで河部康男君(精神科医)から同期生の小城忠行君(医者)の兄靖夫中尉(陸士55期)の軍刀が玉砕したサイパンから戦後62年たって小城君の元に帰ってきた話を聞いた。軍刀は軍人の魂である。武士道では力と勇気の表徴とした。
戦史によれば、昭和19年6月15日、米軍はサイパン島西海岸南部地区から上陸を開始。猛烈な艦砲射撃、圧倒的な物量作戦で日本軍に攻撃を加えた。6月18日以来、東南端のナフタン岬を死守していた佐々木大隊(歩兵・巳代太大尉)とともに小城中尉(独立山砲第3連隊第3中隊隊長)らが指揮する106名は26日夜アスリート飛行場へ突撃、米軍機5機を爆破して玉砕した。この時、55期の池田栄中尉、金城俊之中尉も同じく玉砕している。この3人は陸士本科では同じ中隊であった。この際の突撃についてサイパンで戦った米軍人が次のように語っているという。「ある将校が共に突撃しようとする部下を飛行場に押しとどめて抜刀しまっしぐらに切り込んできたので機関砲に飛びつき発射してこれを倒したが日本軍の将校の闘志、振舞いに感激した」(独立山砲第3連隊6中隊長山下俊雄大尉の情報)。郷里鹿児島の母親の元に送られた将校行李の中には辞世の歌があった。「みことのり かしこみていさむもののふの けふの門出にあふぞうれしき」。
昭和42,3年ごろであった。「サイパン島から帰ってきた祐定」の見出しで新宿のデバートで刀剣展が開かれる新聞記事を見て小城君は、これは私が手入れをした兄靖夫の軍刀ではないか、ぜひとも出かけて行って確かめてみたいと思った。東京・小平で開業したのが昭和41年4月,家の借金と幼子2人を抱えては、見ても無念の思いをするだけとあきらめて、忘れることにしたという。それから40年、平成18年12月30日の朝日新聞記事に備前国住長船祐定の銘の入った写真まで載せて刀剣展が大丸東京店10階で1月2日から9日まで開催されるとあった。まず1月3日午前中に靖国神社に初詣、遊就館で靖夫兄の写真にお参りをする。翌4日大丸の会場を訪ねた。奥の方に祐定はあった。拵え(刀装のこと。飾太刀・糸巻太刀拵え・打刀拵えなどがある)がなかったが見おぼえがあった。今目の前にあるのは兄の軍刀に間違いない。はばき(鎺・刀剣の刃にかけてはめ込み、刃身が抜けないように締めておく金具)の表面の刻みなども昔のままである。早速祐定を頂くことにした。引き渡しは10日ぐらいかかるということであった。
不思議なことが起きた。1月15日は家内の父親の命日に当たる。家内の姉が郷里から電話があった。「昨夜父母が夢の中に出てきたが、その実家に妹(小平居住)と一緒に立派な軍服姿の恐らくは小城どんの靖夫さんじゃないだろかと思われる人が訪ねてこられた」という。この姉は靖夫兄にあったことも話したこともない。そこで軍刀の話を知らせた。丁度この日に祐定を日渡すことが出来ますので都合のよい日に来てくださいと連絡が入ったばかりであった。偶然と言いながら御霊がこれほどまで喜んでおられるのかと衝撃を受けた。ちなみにこんなこともあった。家内の父親は陸軍少佐。戦後小城君の母親がなにかとお世話になった。靖夫兄がサイパン島で戦死した時刻ころ郷里の姉妹弟など3人の夢の中に兄が黙したまま玄関に立っていたという。
兄靖夫との最後は広島幼年学校を卒業、昭和18年3月22日、陸軍予科士官学校へ仮入校の日。たまたま兄は千葉の野戦砲兵学校に在学中であった。その日の朝一緒に靖国神社に参拝、次に九段下の写真館で記念撮影をしたあと各幼年学校生徒の集合場所になっている大泉学園駅行き、そこから朝霞の予科士官学校間で行進する間も隊列につき、仮入校式に参列し各中隊別に分かれてからも私の中隊まで来て区隊長に挨拶して帰った。この時、兄が言った。「歩兵操典、作戦要務令、その他の勉強はほどほどよいからまずは健康に気をつけて出来るだけ本を読むよう心掛けなさい」。この言葉はこの時代、小城君にとって驚きであったという。立派な兄を持ったものである。
兄の戦死を知ったのは予科を卒業、座間の本科に入校した昭和19年10月13日であった。第12中隊(歩兵2区隊・砲兵3区隊)第2区隊に配属された。小川諭区隊長(54期)から佐野光弘区隊長(53期)の元へ行くように言われた。佐野区隊長は「兄さんは山砲兵の区隊長として俺の隣のこの椅子に座るようになっていたのを断って、確かあの部隊はサイパン島へ行ったから、7月に玉砕だったので戦死されたと思う」と言った(戦死公報は7月18日)。茫然として区隊長室を退出、すぐに母親に手紙を書いて知らせた。兄の軍刀がいかなる経緯と経過で日本に渡り刀剣展に出品されたかは分からなかった。兄の軍刀が今、小城君の家の床の間に飾られてある。
(柳 路夫)
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